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Re: 真清田弘法

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 5月 5日(月)11時39分24秒
返信・引用 編集済
  酔石亭主さんへ

 「勢至の立岩」の情報をありがとうございます。全然知らなかったです。稜線の近くのどこかにあるようですね。養老山地は頂上部が広くて、なかなか見つけるのが大変そうですが、楽しみが増えました。

 おとといも「表山」に登るべく、尾根と稜線を歩いてきました。やっぱりほとんど人に会わなくて静かでした。花がきれいな季節でした。

 養老山地の東を北上する途中に「行基寺」があって、お寺の中からの眺めがとてつもなくよいです。お抹茶をいただいている方もみえました。

 花の写真を載せます。下の写真がイワカガミですね。
 
 

Re: 尾張氏のこと

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月 5日(月)08時29分21秒
返信・引用
  > No.1106[元記事へ]

時空少女さんへのお返事です。

> 酔石亭主さんへのお返事です。

>その理由を列挙すると1冊の本になってしまいますし、

是非あなたのホームページで、1冊の本の分量では時間が掛かり過ぎるので、うまくまとめて書いてください。違う意見を読むのは参考になるので、期待していますよ。
 

Re: 真清田弘法

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月 3日(土)13時12分12秒
返信・引用
  > No.1102[元記事へ]

チェリーさんへのお返事です。

粘り強いですねぇ~。とても私には真似できません。頭が下がります。

ところで、伊吹山に行こうかなどと考えていて、養老山地の東を北上するルートにしようかと思っているのですが、ルート上に何かないか調べていたところ、養老山地の北に勢至の立岩と言う名前の八百比丘尼が関係する巨岩があるようですね。
もうご存知でしょうけど、ちょっと面白そうです。
 

Re: 尾張氏のこと

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月 3日(土)13時04分19秒
返信・引用
  > No.1100[元記事へ]

時空少女さんへのお返事です。


> 尾張氏に関する最新の学説も、「まず美濃に入り、美濃から濃尾平野に移動」のようです。

畿内勢力が東国に向かうには基本的に後代の不破関を通るしかないので、既に書いた天火明命の移動ルートが美濃から尾張への道筋となります。天火明命の起点である鏡作坐天照御魂神社の神宝は三角縁神獣鏡で、この同笵鏡(同じ鋳型で作られた鏡)が犬山市の東之宮古墳から出土していることからも、天火明命が鏡作神を随伴させたのは間違いないと思われます。となると、天火明命が尾張に来たのは4世紀半ば(かそれより少し前)と想定されます。(籠神社の天火明命も息津鏡、邊津鏡を持ってきているが鏡の製作年代が全く異なるので別人)

ただし、尾張氏が美濃から尾張に来たとするのは天火明命が尾張氏の祖であるとの前提に基づいているはずです。天火明命を尾張氏の祖とした場合、尾張氏の最重要な神社である熱田神宮においてなぜ主祭神の一人として祀られていないのか説明が付かなくなります。また、尾張氏を物部氏とした場合、物部系の高倉下を祀る高座結御子神社がなぜ熱田神宮の最重要な摂社なのかも説明が付きません。尾張氏の北上に伴って物部氏を吸収していったことから、熱田神宮の摂社になったと考えるのがスムーズなようです。

尾張(氏)の古墳が古墳時代前期はあるのに、中期がほとんどなく、後期になってまた出てくるのは、畿内勢力の流入が前期で止まったため中期にめぼしい古墳がなく、後期になって年魚市潟周辺に発祥した尾張氏が尾張のほぼ全域を勢力下に収めたからと仮定すれば、無理なく説明が付きます。

まあ、尾張氏とは何者かはコメント欄をお借りして議論できるような代物ではなさそうなので、この辺りで止めておきます。
 

真清田弘法

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 5月 1日(木)22時37分1秒
返信・引用
  時空少女さんへ

 はい、日本列島が龍なのかもしれません。小松左京の「日本沈没」第1部の最後の場面を思い出します。日本列島がナマズだったという短編もありました。そのまま泳ぎだしたですねぇ…
 ところで、PONTAさんと時空少女さんは、同じ存在なのでしょうか?


皆さんへ

「弘法さんかわら版」は弘法様にまつわる話を日泰寺参道で配布してみえます。平成14年創刊で、長く続けてみえます。書いてみえるのが民主党参議院の「大塚耕平議員」なのですが、本日ご返事をいただきました。
 残念ながら、真清田弘法について、すぐには思い浮かばないとのことでしたが、一宮の方に聞いてくださったりしていただいたようです。お忙しい中を、申し訳なかったです。何かわかることがあれば、教えていただけるとのことです!「一宮の「大毛の弘法さん」に手がかりがあるかもしれませんねぇ」とおっしゃってみえました。調べてみると「清水弘法寺」というお寺らしいです。弘法様と井戸の伝説があるようです。

 「清水弘法寺」は、なんと、「南宮山」頂上の真東(90.01°!)という高精度の位置だったのですが、見ず知らずの人からいきなりこんな話を持ち出されても、引きますよねぇ…これは困った人に関わったなと思われてしまうのがオチです…だから、お礼のご返事には伏せておきました。

 

リュウの道

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 4月30日(水)22時02分20秒
返信・引用 編集済
  MURYさんへ
 日泰寺の位牌堂がどこにあったか? 現在は、奉安塔の近くにある霊堂か舎利殿だと思うけど、昔は本堂の近くにあったのかなぁ?
 昭和5年から8年まで、3年しかないのですねぇ…とりあえず、道がいつできたのか探ってみたいと思います。

酔石亭主さんへ
 まだあきらめずに、あせらずに探してみますね!

 さて、私はというと、尾張本宮山から赤岩大神へのラインが、とても衝撃的でですねぇ、よく見ると養老山地そのものが「龍」なのではないかという考えにとらわれてしまいましてですね、場所を変えて2回登ってきました!うーん、いい山ですねぇ!展望のある場所が限られているのですが、そこからの眺めと言ったら…
 同じように、養老山地が龍だ!と言ってみえる方が一人みえました。「BlueBloomBlog」というエイジさんという方のブログで、「片目の龍と養老山脈」をGoogleで検索すると見れます!
 

Re: 真清田神社まとめ

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 4月30日(水)18時43分33秒
返信・引用
  > No.1090[元記事へ]

時空少女さんへのお返事です。


>天火明命かその御子が8氏族(「八」は「8」ではなく、「多くの」「複数の」の意?)を連れてやってきて8ヶ所に分かれて開拓を進め、その8氏族の1つ、あるいは、そのいくつかが1つにまとまって尾張氏と名乗るようになった気がします。勘ですので、確信はありません。

PONTAさん

まず天火明命は尾張国の祖神ではあるが、尾張氏の祖神ではないと考えます。理由は各歴史史料に天火明命は天孫族、大己貴命の子、ニギハヤヒの同一神などと記されていることによります。これは大和王権成立前後の大和の情勢(出雲族の信仰圏・大和に物部氏が入り、続いて天孫族が入った)を反映したものと想定されます。ここから天火明命は三者が融合したもの(あるいは三者がそれぞれ又は共に天火明命の名において各地に移住した)と考えられます。

さらに、尾張氏の本貫地が高尾張邑なら、そこに天火明命を祀る神社や尾張氏の痕跡があるはずだが全く存在しない点。系図では何代目かまで葛木の名前があり、それが尾張氏高尾張邑発祥説最大の根拠となるが、後代に造作されたものと考えられる点、などから尾張氏は高尾張発祥ではないと思えます。

次に天火明命は八頭八尾の大龍(八岐大蛇)に乗って降臨したとされますが、この場合八岐大蛇は産鉄族を意味しています。加えて蛇は鏡と関連し真清田神社の真清も鏡を意味することから、天火明命は大和から産鉄族と鏡作神を伴って尾張に来たことになります。そこで、天火明命が大和から出発したとして、一宮市に至るルート上に天火明命や産鉄族、鏡作神、八岐大蛇を祀る神社が点在していれば、上記の考え方を証明できることになります。

大和の鏡作坐天照御魂神社の祭神は天火明命と鏡作神の石凝姥命、天糠戸命で、起点の大和と終点の真清田神社が鏡と関連しています。美濃国二宮の伊富岐神社祭神は諸説あって産鉄族・伊福氏の祖神天火明命や八岐大蛇などとなります。美濃国一宮の南宮大社(仲山金山彦神社)の祭神は金山彦、摂社に天火明命などで、長くなるので書きませんが南宮大社にも鏡作神がいると考えられます。

伊富神社祭神は伊富部氏の祖神、天火明命となります。伊富利部神社で一宮市に入りますが、伊冨利部氏(伊福部氏)に関係します。以上で大和から一宮市に向かうルート上に天火明命、鏡作神、八岐大蛇、産鉄族の伊福部氏、金山彦が存在すると確認されますね。(伊福部氏は天火明命同様、史料により大己貴命、物部氏、尾張連同祖で天火明命末裔などの説があります)

天火明命は尾張国の開拓に貢献したので、後代力を増し尾張国全域を勢力下に置いた尾張氏が天火明命を自分たちの祖神に充ててしまったと考えられます。よって、天火明命は天孫族、出雲族、物部氏、尾張氏の属性を持つ複雑な神となってしまった訳です。と言うのが、確信はないものの現時点での考えです。

チェリーさん、MURYさん、

龍神石に関して色々ご調査いただき御苦労さまでした。とても残念ながら、もうこれ以上前には進みそうにないですね。
 

椿大神社の龍神石

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 4月30日(水)06時38分21秒
返信・引用
  龍神石という名前を聞いて思い出すのは、三重県椿大神社にあるという同石です。
昔の私のHPの記事をそのまま転載します。

~~~

 椿大神社の由緒書にこのような記述があります。

「末社 多度社 境内龍神石 祭神 天目一箇命」

 三重県桑名市多度町に鎮座する多度大社の分霊である多度社が、椿大神社の境内末社としてあるよということですが、その場所が「境内 龍神石」となっています。さて、龍神石とは何でしょうか。
 神社の詳しい方(たぶん宮司の方)に伺ったところ、多度社がまつられるようになった由来は、明和年間(1764~1772年。何年かも聞いたが失念)に天目一箇命の神名が書かれたお札が、境内にある「金竜明神の滝」(立入には許可要)の辺りに落ちてきたという現象から、そこに多度社を建てたといわれています。
 その後明治時代になって多度社は椿大神社の本殿内に合祀されることになったので、現在の多度社の御魂は本殿の中にあるとのこと。龍神石のことについては分からないが、その石があるとしたら本殿の中ではないかとの話でした。

~~~

龍神石が小さめの石で、祠の中に秘匿され、現代的な名称であるという点で共通性があります。
 

Re: 真清田弘法

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 4月30日(水)06時32分45秒
返信・引用
  > No.1093[元記事へ]

昭和8年秋の時点で、真清田弘法が石であるという話が伝わっています。
龍神石が位牌堂に移されたのは昭和5年1月。
後年、龍神石が真清田弘法へ移されたとすると、それまで真清田弘法にあった石は結局何かという問題が浮上します。
また、昭和5年から8年の3年間で、両者の存在がごっちゃになるのか、伝聞だとしても。

一方で、こういう解釈もできます。

元々の名前は水精石

明治の神仏分類で真清田神社の西神宮寺から流出

民間の手を経て、日泰寺に納められる

その時に、真清田弘法と名前が新たにつけられ、昭和5年位牌堂に納められる

昭和8年に遠山正雄氏が真清田弘法の話を聞く。なぜかその時点で土段から流出した石という話に盛られる。

戦後、3名の女性達によって真清田弘法が知られ、放生池の神殿に安置される。

昭和58年、上記の女性達によって真清田弘法の返還運動が起こる。

昭和61年、真清田神社に返還され、八龍神社の神体石として収められる。その際に龍神石という名前に改められる。

日泰寺のほうにも、石はなくなったがそのまま真清田弘法の祠は残りまつられ続け、放生池の埋め立てによって現在地に移転、今に至る。

オール推測です。
 

Re: 真清田弘法

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 4月29日(火)22時09分56秒
返信・引用
  > No.1092[元記事へ]

日泰寺の位牌堂ってどこにある(あった)んでしょうか。
位牌堂→放生池の島→真清田弘法→八龍神社
この流れだとすると、激動です。
 

Re: 真清田弘法

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 4月29日(火)21時25分28秒
返信・引用
  > No.1091[元記事へ]

PONTAさんへ

 見れました!ありがとうございます。やっぱ、すごいですねぇ。参考にしますね。
 八岐大蛇に乗ってやってきたというお話、いいですねー!

MURYさんへ

> 常々疑問なのは、龍神石は日泰寺の位牌堂に安置されたのに、なぜ真清田弘法と同一視されているのかが分からない。置かれた場所が違いますよね。

 PONTAさんの29日01時の掲示から「ほのぼの」という冊子に移動できますが、その中の「真清田神社と龍神信仰」という記事にあるのが、「日泰寺を訪れた三人の女性が龍神石のいわれを知って、境内の池に浮かぶ小島に神殿を造営すべく東奔西走し、完成後にそこに手厚く祀られるようになった」という内容です。

 その池(放生池)の真ん中に、大きな道が通ってしまったようです。愛知県道30号線 姫池通 です。私が小さい頃に知っていたのは、残った小さな池です。埋め立て前の写真を見ると、島らしきものは見えましたけど、道路になってしまった場所だと思います。
 想像に過ぎませんが、その埋め立ての時に、島から今の真清田弘法に移されたのでは?と思っています。
 ここも追いかけて調べたいところです。

 

Re: 真清田弘法

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 4月29日(火)18時48分7秒
返信・引用
  > No.1088[元記事へ]

千種図書館へ行ってきました。
日泰寺がある千種区の図書館だから、日泰寺に関する資料は一番多いはずだと思ったからです。
しかし、行って分かったのですが、日泰寺の資料は千種よりも鶴舞図書館のほうが数冊あるようで、後悔しました。
収穫はあまりありませんでしたが、一冊だけ。

『尾三文化史談』(上・下巻)という郷土資料に、昭和初期に刊行されていた雑誌『愛知教育』の復刻が収録されています。
その中に、遠山正雄「尾張地方のイハクラに就いて」(『愛知教育』第551号、昭和8年)という論文がありましたので紹介しておきます。
真清田神社の土壇、真清田弘法の話なども記されていましたが、書いてあることは、以前私が紹介した『皇学』の論文と大差はありません。
ただ、真清田以外では小牧山の環状列石や津島神社など、『皇学』で触れていない尾張のイハクラも総覧した感じです。

鶴舞図書館に下記の文献があるようなので、機会があればまた見てみたいと思います。

日泰寺編 『覚王山日泰寺略記』 1959年
森徳一郎編 『真清田神社江戸時代の神宝と流出』 一宮史談会 1964年


>チェリーさん

日泰寺への聞き取り結果を教えてくださり、ありがとうございます。
真清田弘法の顛末はやはりはっきりしませんね。

常々疑問なのは、龍神石は日泰寺の位牌堂に安置されたのに、なぜ真清田弘法と同一視されているのかが分からない。置かれた場所が違いますよね。
同様に、龍神石と水精石が同一視される根拠もわからない。同じ水晶石でも、名前が違えば基本的には別個の存在と見たほうが妥当です。

流出する前の場所も、龍神石は真清田神社の西神宮寺の所蔵であるのに対し、真清田弘法は土壇上という話です。
もちろん、遠山正雄氏の話も又聞きのあやふや記述なので、この証言がどれほど正確を期しているかは批判的に見ないといけませんが・・・。
 

真清田弘法

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 4月28日(月)00時33分42秒
返信・引用 編集済
  酔石亭主さん・MURYさん

 少し前の事になりますが、日泰寺の社務所で、お話を伺いました。
 女性の事務員の方と、僧侶の方がみえました。
 やはり、分厚い資料がありまして、その中の1ページを見ながら、僧侶の方が説明してくださいました。そのページの半分が真清田弘法の記事で、半分が龍神石の記事のようでした。

 年に一回、お経をあげるのだそうですが、世話人の方の依頼によるもので、お社の中は、見ていないそうです。詳しくはわからないとの御様子でしたが、真清田弘法は龍神石を祀って、それは真清田神社に戻ったのだから、ここにはないという認識のようでした。

 日泰寺としては、よくわからないということになるようです。
 ページの欄外に書き込みがあって、どなたかのお話で「…龍神石・念持石…」という記述が見えました。
 もうひとつ「愛知県伝説集 福田祥男」という書き込みがありましたので、後日その本を見ました。「真清田の龍神」というところに、弘法大師の伝説と竜神石のお話が載っていました。新しい発見はなかったのですが、龍神石がここの位牌堂に祀られたのが、昭和5年1月であることがわかりました。

 ここまでです。もう、これは世話人の方に聞くしかないです。でも、それがどこのどなたかわからないです。「弘法さんかわら版」に尋ねるしかないんじゃないかな?一度やってみようかな と思っています。でも、忙しい人だしなぁ…

PONTAさんへ

 ごめんなさい、ようやくサイトを訪れようとしたのですが、もう繋がらなくなっていました…


追記・そのページに位牌堂に祀られた龍神石の写真がありました。何かの記事のコピーのようでしたが、布が被っておりまして、実物はわかりません。でも、ずんぐりとした形で、一尺もある長細い石ではなさそうでした。
 

真清田神社まとめ

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 4月20日(日)19時49分15秒
返信・引用
  PONTAさん

真清田神社のまとめを拝見しました。
とてもわかりやすく整理されているので参考になります。

尾張氏はホントよくわかりませんね。
私は松炬島発祥の在地豪族とほとんど勘だけで思っているのですが、確信はありません。

チェリーさん

最近は歴史の謎解きから少し離れて水石の方に行っていましたが、その間に真清田弘法をあれこれ調査いただき有難うございました。
どうも雲をつかむような話になりそうですね…。
きっと神仏の世界は物事を明らかにせず曖昧模糊としているのがいいのでしょう。
尾張氏に関してもまたしかりかも…。
 

真清田神社の御祭神

 投稿者:時空少女  投稿日:2014年 4月 2日(水)14時41分31秒
返信・引用
  尾張国には一宮が2社あります。真清田神社と大神神社です。
大神神社は真清田神社に祀っていた三輪神を分離した神社だそうです。
なぜ三輪神かというと、真清田神社の宮司家が三輪氏だからのようです。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/middle/s_masumi.html

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/rekijyo.htm

 

PONTAです

 投稿者:時空少女  投稿日:2014年 3月31日(月)20時22分23秒
返信・引用
  時空少女の公式サイトを更新しました。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/rekijyo.htm
ただ今、超金欠なので、出来る範囲に絞ってのマイナーチェンジです。

真清田神社の御祭神は、天火明命です。一宮制の成立時に大国主命に替えて一宮に承認されると、また元の天火明命に戻しました。

真清田神社によれば、天火明命は、尾張地方開拓の祖で、八岐大蛇に乗ってやってきたので、尾張国には8郡あるのだそうですが、それが伝説ではなく、史実だとすると、8氏族をひきつれてやってきて、8カ所に配置したというかとかな。

乗り物の八岐大蛇は伊吹山に置かれたようです。この八岐大蛇から草薙剣を取り出したのが、尾張氏の祖ともいえる建稲種命で、家系図には「建稲種命 亦名須佐之男命」と書かれています。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/rekijyo.htm

 

チェリーさんへ

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 3月30日(日)23時27分47秒
返信・引用
  ちょうどチェリーさんのご投稿を拝見しましたので、また出てきました。本当にすみません。

チェリーさん、読みごたえのあるご投稿をありがとうございました。読ませていただきました。
真清田弘法の存在感は、どうやら神社的には薄い感じですね(笑)

祭神の話は、権禰宜さんの見解のような感じを受けました。神職の方は、歴史の不明瞭なことには特定の立場によれないため、私見を述べることは大変かと思います。
防空壕と土壇も、同じものを指しているかどうか、少しかまえて見たほうが良いかもしれません。
 

お詫び

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 3月30日(日)23時18分43秒
返信・引用
  長いこと放置しており、発言もなくすみません。
時たま読んではいたのですが、考えて、自分の考えを述べる余裕がありませんでした。
結果、忙しさに甘えて放置しておりました。管理人失格をお詫びします。
お詫びながら、いましばらく、このような感じです。
掲示板は、もしご利用いただけるのであれば、どうぞ自由にお使いください。

>あんでっどさん
twitterやっていないです。ふつうにブックマークしてます。見てます。
 

もう少しだけ真清田神社

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 3月30日(日)23時15分41秒
返信・引用 編集済
   私としましても、uziさんのように、岩石の話に戻るべきと思うのですが…
 もう少しだけ…

 先日、真清田神社(愛知県一宮市)境内の「八龍神社」の月例祭を見に行きました。何と雨で、隣の建物の窓を開けて行われていました。関係者の方は建物の中に入ってみえたのですが、御自由にお入りくださいというわけでもなさそうなので、外から見ていました。お供え物しか見えません。神主さんが祝詞をあげて終わってしまいました。関係者の方々は、あれ?隣の厳島神社にお参りして帰っていきました。

 窓の外から神主さんに「八龍神社のお社の中に龍神石があるのでしょうか?」と問いかけたのですが、よくわからないようでした。「詳しい者が宝物館におりますので、そちらで聞いてみてください」とのこと。そのときはまだ閉館していたようでしたが、巫女さんが連絡を取ってくださって、中に入ることができました。

 お話をしてくださったのは、権禰宜の方でした。とても親切にお話していただきました。
 同じ問いから入りました。八龍神社のお社の中に龍神石はあるのでしょうか?
 御神体を見ることはできないのだそうです。でも、流出した龍神石が日泰寺から真清田神社に返還されたという話は肯定されました。それがどういった経緯だったのかということは、今となってはわからないそうです。権禰宜の方は御自分で集めた資料の分厚いファイルを2冊持ってみえまして、それを見ながらお話してくださいました。(それは私には、とんでもない宝物に思えました!)

 「日泰寺境内の「真清田弘法」にも、同じようにここから流出した御神体の石が祀られているとされていますが?」との問いには、流出したり、元に戻されたりしたという話は、多くあるので、そのひとつではないかな?とのことでした。現に宝物館を入った正面にある龍の像を指して、これは尾張徳川家初代義直公が奉納された龍ですが、これも流出して戻されたと伝えられるのですが、今となっては、はっきりしたことはわからないのだそうです。

 本殿の後にある「土壇」についても伺いました。防空壕の跡との見解でした。第二次大戦時に、万一の事態に備えて、御神体を守るべく、そこに防空壕が作られたのだそうです。(改めて見てみると、私が以前報告したような直径10m程度の円形ではなく、もっと左右に広がっていました!ごめんなさい)

 これは私の想像だったのですが、真清田はもともと龍の神社だったのではないかとの質問には、そうではないと。もとは国津神の大黒様で、稲作の流入とともに天津神である天火明命に変わったとの見解でした。稲作が始まると同時に雨乞いの必要性が生じて、龍も祀るようになったのではとのことでした。養老との関係については、間に木曽三川があるので、関連性は困難ではとおっしゃってみえました。

 気がつくと1時間近くがたっていました。もっと他に尋ねることがいっぱいあるでしょう?と思われるかもしれませんが、私の力ではここまででございます。うーん…

 権禰宜の山本さん、本当にありがとうございました。


>PONTAさんへ

 ご返事ができなくてごめんなさい。
 ゆっくりと拝見させていただきますね!!!



 
 

あれ

 投稿者:あんでっど  投稿日:2014年 3月28日(金)01時51分19秒
返信・引用
  今気づいたのですが、twitter見ていただいていたのですね。
しかしフォロワのどなたがMURYさんかわかりませぬ……。
細々とやってますので、また眺めてみて下さい。
 

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