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石山

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 5月27日(火)01時00分58秒
返信・引用
   岩石の話に戻りましょう!

 岐阜県各務原市那加手力町だと思います。要するに、那加手力雄神社のすぐ東です。「石山」と地図にあるので、気になって、行ってきました。といっても、3月のことです。那加第一小学校の北に沿って東西に延びた山なのですが、この小学校も、明治時代からの歴史があるようです。

 登り口は東の端にあります。少し登ると「馬頭観音」を祀っているようです。

 そのまま進むと、岩の稜線です。いい道ですねぇ。西の端は体育館で行き止まりですが、ちょっとした山歩きができます。景色もよいです。このあたり(岐阜市から各務原市)では、山の大小を問わず、こうした露岩が見られるのです。


 
 

Re: 星石

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月14日(水)20時52分25秒
返信・引用
  > No.1142[元記事へ]

時空少女さんへのお返事です。

> やっぱり意見が合わない。

異なる意見のやりとりから新しい知見が生まれ理解も深まるのは良いことでは…。

>玉置氏が尾張氏族であることは一目瞭然!

本当に一目瞭然でしょうか?玉置氏がいたから熊野の山が玉置山と名付けられた可能性もあるので、私も玉置氏の系図は事前に見ています。しかし、石亭の話とは関係ないと思われ、前回で書きませんでした。時空少女説は天明火命が8氏族を尾張に配置して、その一つが玉置氏のようですが、その考えに沿った場合、

1.乎止与命以前に玉置氏に繋がる人物が存在する必要があるのに、系図上では尾張連の後裔でかなり後となり、しかも尾張氏からの別れが熊野の玉置氏になってしまうのは時空少女説とは真逆の動きとなる。
2.系図によれば玉置氏初代は牧夫(枚夫、熊野大神忌人=熊野大神を祀る神職)になると判断されるが、初代がなぜ尾張と関係のない熊野の神官になるのか説明が付かない。
3.牧夫の後裔に多少名前が知られた玉木庄司(「太平記」に出てくる人物)がいて十津川在住しており、彼は鎌倉後期の人物。系図上の人物から見ても、 彼らはずっと熊野周辺にいた地方豪族とするが合理的。
4.牧夫の系図は玉置神社宮司のルーツとなる平資盛(平家一門)へも繋がらない。(牧夫系と平資盛系のいずれにも何人かの玉木庄司、玉置庄司がいるので繋がるとも言える??)

いずれにしても玉置氏の系図は曖昧で判然としません。玉置家と尾張との関係は尾張徳川家の時代となりそうです。熊野の玉置氏が尾張氏の流れを汲む系図を作ったのは、高倉下が熊野で神武天皇を助けた話が元になっていると思われます。つまり、高倉下=天香山命だから尾張氏に繋げたと言うことでしょう。

などと思うのですが、古代の玉置氏の痕跡が尾張にあってその場所が玉置山と言うことなら、参考になりますので是非教えてください。
 

Re: 星石

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月13日(火)21時19分28秒
返信・引用
  > No.1139[元記事へ]

時空少女さんへのお返事です。

> 「玉置山」「星池」がどこなのか知りたいものです。

木内石亭とは正に水石趣味界の大先達であり、この名前が出るとつい嬉しくなります。時空少女さんなら既に玉置山に関してあらゆる可能性を調べ、最有力候補として星崎の星宮社を考えられたのでは…?

酔石亭主はズバリその星崎の星宮社が玉置山と考えます。理由は、今も時々星(隕石)がこの山に落ちるとの記述があること。熊野の玉置神社に関して玉置山にある神体石は隕石ともされ(事実関係は別の話)、玉(隕石)が置かれた山を玉置山と称したとすれば、星宮社の場合も同様のケースと考えられること。によります。

星池はわかりませんが、社の下を流れる小河川の水を引き込んだ池があったのかも…。(尾張名所図会で境内図を見た際、池はなかった記憶があります)赤星の落ちるところ、との記述から天津赤星が連想されこの神は星宮社祭神・天津甕星と同神とされる点も可能性として浮上しますが、石亭の記述の仕方からするとやや無理がありそうです。

 

Re: 天火明命

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月13日(火)21時16分3秒
返信・引用
  > No.1138[元記事へ]

時空少女さんへのお返事です。

> 紀元前に尾張国に稲作を伝え、神と呼ばれたのは誰でしょう?

質問の含意はわかるような気もしますが、まずは名古屋市北区に鎮座する綿神社の由緒を参照してください。その上で、由緒の内容で説明の付かない部分と不十分な部分を考えてもらえればと思います。

それと、一代を30年とするのは相当無理があります。徳川幕府の時代でさえ270年で15代ですから、一代たった18年。尾張氏系図を少し甘めに一代20年と見て75代で1500年前。尾張氏が勢力を伸ばしてきた5世紀末から6世紀初頭にかけての時代とほぼ合致しますね。この頃尾張氏は系図を作って自分たちの祖神に天火明命を繋げたのかも…。いずれにしても、尾張氏の始まりと尾張(紀元前に尾張国は存在しませんが…)における稲作の始まりを連結させるのは難しそうです。
 

Re: 天火明命

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月12日(月)06時29分32秒
返信・引用
  > No.1131[元記事へ]

時空少女さんへのお返事です。

> 天火明命って、天照大神の孫とか、ニギハヤヒのこととか言ってるけど・・・いつの人でしょう?

紀元前ではあり得ず、もっと遅い時代の人です。天火明命=ニギハヤヒは十種神宝(とくさのかんだから)を携えて降臨したとされます。その中に瀛都鏡(おきつかがみ)、邊都鏡(へつかがみ)があって、邊都鏡は前漢鏡、瀛都鏡は後漢(25年~220年)鏡とされています。後漢鏡が2世紀の後半から終わり頃日本に伝来したと想定すれば、天火明命=ニギハヤヒは2世紀の終わり頃から3世紀初め頃の人と時代を絞り込めます。卑弥呼(248年頃没)以前の人物と言うことですね。
 

Re: 田縣神社の磐境

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 5月12日(月)00時06分0秒
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  > No.1134[元記事へ]

おおっ写真ありましたね!
撮影できるんだ・・・
ダメもとでこの方々に写真利用をお願いしてみては?
 

Re: 田縣神社の磐境

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 5月11日(日)23時26分42秒
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  > No.1132[元記事へ]

田縣神社の磐境は聞いたことがありません。

それとも大国霊神社の磐境のことでしょうか?
ここの磐境は外からは見れないので、写真はweb上には出回っていないみたいです。
社務所で拝観を願い出れば、おそらく見せてくれそうな様子ですが、web界ではまだ誰もチャレンジしていません。私も含めて。拝観した方はいても、写真撮影は自粛しているのかもしれません。
大国霊神社のパンフレットには写真が掲載されています。
それをサイトで転載するのは△なので、やるとしたら、拝観で写真撮影をお願いしてみるといったところでしょうか。
 

Re: 真清田神社の陽石

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 5月 9日(金)21時40分9秒
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  > No.1123[元記事へ]

時空少女さんへ

 写真をありがとうございました!
 よく見ないといけないですね!全然気がつかなかったです。
 聖地に掘った井戸って、どこなんでしょうね!

MURYさんへ

 はい、まだまだ謎は残りますね。楽しみです!

 日記の更新に気がつきませんでした。
 谷を100m下って、尾根を100m登ったのですね!これは大変だ。こうやって見ると、結構深い山ですねぇ… MURYさん、この山の主になりそうですねぇ!
 

Re: 尾張氏のこと

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月 9日(金)19時56分41秒
返信・引用
  > No.1126[元記事へ]

時空少女さんへのお返事です。


> なるほど。「八岐大蛇に乗って来た」とは、「草薙剣を持ってきた」ってことかもね。

草薙剣は難し過ぎてどうにもなりません。一応、鏡と同じに考えれば、崇神天皇の時代に宮中から出したので、代替品を作り、その試作品を天火明命(とその御子・天香山命)の後裔が尾張に持ち込み、東国版日本武尊の建稲種命が受け取って大高に置いたが大化元年に熱田に遷した。天智天皇の時代に三種の神器を定めようとするも、剣は宮中にも伊勢神宮にもなかった(物部氏のものになっていた?)ので、試作剣を尾張氏から奪い取った(道行の盗難事件)。ところが非難轟々で、天武天皇時代に尾張氏に返した。(剣は天照大神の霊代ではないので、一見筋が通りそうでもこの考え方には相当無理がある)

実は物部氏の本貫地遠賀川流域には尾張と全く同じような話や地名、神社があり、(熱田神宮の謎を解く その33~36で書いています)やはり草薙剣は出雲族→物部氏→尾張氏→一時天皇家→尾張氏なのかとも思いますが、この問題はより複雑そうで現状では酔石亭主の知見の範囲外となります。


> 「あゆち潟に定着して、そこからあちこちに行った」の証明は、あゆち潟の神社や古墳が、他の地域のそれらより古ければOKなのかな。時空少女説は、「天火明命が連れてきた8氏族が8ヶ所で開拓や治水工事をして、尾張氏と名乗った」です。

時空少女説と酔石亭主説の違いは、畿内から天火明命に率いられて来た氏族が尾張氏になった説、と、あちらこちらを船で移動していた海人族が年魚市潟に入り勢力を増して尾張氏になった説の部分ですね。時空少女説の場合、3世紀から4世紀初めに天火明命は存在していないし、天火明命(とその御子・天香山命)の後裔の尾張到来は初期大和王権の東国支配に向けての第一歩的なものであり、それに随伴する氏族が尾張氏になったとは考えにくいと思います。また、元々海人族の尾張氏がなぜ大和にいたか説明が付かないし、古墳の築造場所、年代は酔石亭主説に一定程度整合しています。

当初年魚市潟に来た海人グループは氏、姓などない海賊かボートピープルみたいなものだったと思われ、年魚市潟の神社や古墳が他地域より古いかどうか検討する必要はありません。彼らのうんと大ざっぱなイメージは以下のようなものです。
10艘の小舟に乗った海人族が伊勢湾に入った。頭領など3艘は一番地の利が良さそうな年魚市潟に入った。2艘は庄内川を遡り東谷山山麓に入った。他の2艘は木曽川を遡り小牧に入った。残りは海部郡など各地に適当に散った。彼らは相互に連絡を取り合っていた。

4世紀初頭(或いはそれ以前)、葛城山麓にいた天香山命の何代目かの後裔は天火明命の霊代である鏡を携え伊福部氏や笛吹部、鏡作部などを伴い美濃経由尾張に入った。天火明命は天孫族としての位置付けもあり、これは大和王権(豪族連合体)の東国支配の第一歩とも言い得る。

年魚市潟に入った海人グループは海運、物流、沿岸警備(日長神社など明らかに尾張氏の船舶監視所。松炬島はたいまつ島だから、夜もかがり火を設置して警備をした)などで力を蓄え、尾張南部から中部、北部へと勢力を拡大した。尾張北部は天孫系天火明命(とその御子・天香山命)の後裔やその他メンバーが開拓を終えていたので、元々どこの馬の骨とも知れない年魚市潟海人グループは天孫族である天火明命(とその御子・天香山命)を自分たちの祖神に取り込み、かつ天香山命は高尾張邑にいたので、その地名もちゃっかり頂いて尾張氏を称した。尾張は大和王権が東国や越方面へ侵攻するための政学的要衝にあり、尾張氏の協力は不可欠で、それも彼らの勢力伸長要因となった。と言ったところ…。

これで酔石亭主説に宗旨替えしてもらえるかな?


 

Re: 龍神石

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 5月 8日(木)21時48分48秒
返信・引用
  > No.1112[元記事へ]

>チェリーさん

『真清田神社江戸時代の神宝と流出』のご紹介ありがとうございました。
水精石=龍神石説の典拠の1つが、やっとはっきりしてすっきりしました。
龍神石が西神宮寺所蔵で、水精石は神庫所蔵という細かいゆらぎが気になるぐらいで、元もと水精石と呼ばれていた石が、流出の際に龍神石と名前を変えたという記述を見れたのも良かったです。
岩石の名前の上書き史は、私の研究テーマの1つでもあるからです。

『覚王山日泰寺略記』はあまり期待できなさそうですか。略記ですからね・・・。


チェリーさんが指摘されている通り、水精石(龍神石)と土壇の神体石はまだイコールで結びつけられていません。
ここは性急な推測を当てはめず、あくまでも文献or民俗的聞き取りで根拠づけたうえで判断する必要があります。

遠山氏の聞き取った話が創作話でない限り、本殿裏の土壇に神体石がまつられ、それは真清田弘法に名前を変えたという流れを、看過せず、考えなければいけません。

神水舎の金精の御神体ですが、井戸を掘りだした時に見つかったので、土壇の神体石とは別個の存在でしょう。真清田神社の地中に埋もれていたのであれば、真清田弘法のストーリーとも交わらなくなります。
自然石を金精に見立て、石に神性を見たという意味で御神体と命名したのだと思います。
 

Re: 真清田神社の陽石

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月 8日(木)20時30分45秒
返信・引用
  > No.1121[元記事へ]

時空少女さんへのお返事です。

> そういえば、金精さまが載ってる台に「御神體 ・・・當社では鑿井の折聖地より発掘された・・・」って彫ってあるけど、どこから出て来たんだろう?

文面からすれば、神社境内で井戸を掘っていた時に発掘された、と読み取れます。なお、陽石は多分自然石で加工したものではないと思われます。
 

Re: 尾張氏のこと

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月 8日(木)20時13分56秒
返信・引用
  > No.1118[元記事へ]

> 時空少女さんへのお返事です。

> 問題は、初代~11代はどこで何をしていたかで、

尾張氏系図の乎止與命の前までは後代に付け加えたものと考えられます。なぜそうしたかと言うと、尾張開拓の祖とされる天火明命の御子・天香山命(実際は物部氏に関係ある人物で、天孫族とも言い得る)が高尾張邑(葛木)にいたからです。このため系図には何人かの葛木が見られます。天香山命は葛木坐火雷神社や3社の笛吹神社に祀られており、笛吹の地名は産鉄・鍛冶に関係し、この一帯が一大鉄器工房であったのは注目され、さらに尾張国と笛吹は関係が深く笛吹部の存在も確認されます。

> 尾張地方開拓の祖は初代天火明命とされ

厳密に言えば天火明命も天香山命も尾張に来てはいません。それは真清田神社の由緒などから見えてきます。神社神明細帳によれば創建は崇神天皇の御代、神社の社記によれば、神武天皇33年3月3日、天香山命(天火明命の子)がこれを斎き祀ったことになります。一般的に天香山命=高倉下とされており、高倉下は神武天皇に刀を献上しているので、神社側としては創建を神武天皇33年に繰り上げざるを得なくなったのですが、神明細帳が正しいと見るべきです。(崇神天皇=神武天皇説もあるがここでは無視)その根拠は以下の通り。

まず大和の情勢から…。当初大和は出雲の信仰圏になっており、因幡の伊福部氏なども入っていたと思われます。そこにニギハヤヒ率いる物部氏が九州から船で降臨します。天香山命はニギハヤヒに従い大和に入り、葛城山麓に居を定めます。ニギハヤヒの大和入りで少し居心地の悪くなった出雲族や多氏の一部は後代の不破関を越えて美濃経由尾張に入ります。その後天孫系も大和入りします。

同時期の尾張においては、ニギハヤヒに従った高倉下の別同隊が熊野を経由して熱田台地に上陸し、高座結御子神社付近に入ります。また多氏に連なる一族(或いは多氏と融合した在地豪族)がその後邇波氏・丹羽氏となり、尾張北部を支配下に置きます。

崇神天皇の時代(実年代で3世紀後半から4世紀の初め頃と推定)、出雲系との折り合いがまだうまくいかず、天皇は宮中に祀っていた八咫鏡(=天照大神)を外に出します(元伊勢の始まり)。その代替品を鋳造したのが田原本の鏡作師で、献上用の前に試鋳した鏡(三角縁神獣鏡)を天照国照彦火明命と称え、神体として祀ったのが鏡作坐天照御魂神社(祭神は天火明命=鏡、石凝姥など。境内社に笛吹神社もある)の起源となります。さてそこで、4世紀初頭の築造と推定される東之宮古墳出土の鏡は鏡作坐天照御魂神社にある三角縁神獣鏡の同笵鏡(同じ鋳型で鋳造した鏡)であることが知られています。

ここから何が想定されるかわかりますね。ほぼ同じ時期の4世紀初頭(或いはそれ以前)、葛城山麓にいた天香山命の何代目かの後裔は天火明命の霊代である鏡を携え伊福部氏や笛吹部、鏡作部などを伴い美濃経由尾張に向かったと思われます。(美濃国三宮の伊奈波神社はかつて因幡社で産鉄・鍛冶に関係があると考えられ、稲葉山などの地名は因幡国の伊福部氏に関係する可能性が高い)そして、彼らが持ち込んだ鏡=天火明命こそが東之宮古墳出土の三角縁神獣鏡となるのです。このような流れで考えていけば全体が整合してきます。

以上から、仮に天火明命が尾張に来たとして、その時期は3世紀の終わりから4世紀初め頃となり、ニギハヤヒと同体(同時代)の人物である天火明命とその御子・天香山命が尾張に来るのは時代的に不可能となるのです。よって、天火明命が尾張に来たとは、天火明命の霊代である鏡が畿内勢力(天香山命の後裔や鏡作部、伊福部氏、笛吹部など)により尾張に持ち込まれことを意味し、彼は尾張氏の祖ではないと理解されます。なお、真清田大神は油田に降臨したとされ、なぜ天火明命としないか不思議だったのですが、霊代である鏡と考えれば筋が通ります。

伊福部氏は既に書いた内容から因幡国の伊福部氏の可能性が高く、津守氏も住吉大神と関係し、しかも三河において津守氏は出雲族を本宮山や石巻山に案内しているので、尾張氏ではないと考えられます。伊福部氏が天火明命を祖とするのは天火明命(と御子天香山命)が鉄器や鏡作りの守護神だったからで、天香山命の後裔と共に尾張に入ったことからそう称したのでしょう。津守氏は尾張氏と同じ海人族ですから、そこに接点があったのかも。

> あゆち潟以外(仮にA、B、C、・・・)に尾張氏の足跡が残っています。この解釈には、

この問題は以下のように考えれば解決します。
尾張氏は元々海人族ですから、舟に乗ってあちこちを回っているうちにあるグループが年魚市潟に来て定着した。同じグループのAは庄内川を遡り東谷山山麓に入った。Bは木曽川を遡り途中で小牧方面に入った。その後、あゆち潟の尾張氏が勢力を増してきたので、A、Bも尾張氏を名乗った。年魚市潟から勢力を増したグループは尾張氏となり天火明命(とその御子・天香山命)が尾張の開拓に貢献したことから、彼らを自分たちの祖神として崇拝し、他の海人系グループや伊福部氏、津守氏も強大化した尾張氏に合わせた。

以上で時空少女さんの疑問点はほぼ整理・解消されたと思います。ただ、上記はまだ詳しく調べていない現時点での考え(仮説)であり、今後の詳細検討によってどうなるか何とも言えません…。

 

Re: 真清田神社の陽石

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 5月 8日(木)00時04分57秒
返信・引用
  > No.1121[元記事へ]

時空少女さんへ

 えっ?台に彫ってあったんですか?裏側ですか?


 

龍神石

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 5月 7日(水)20時54分46秒
返信・引用
   今、書店で売っている本ですが、「彩色絵はがき・古地図から眺める 名古屋今昔散歩」という「中経の文庫」があります。151ページに「放生池」の写真がありました。小さな島が写っています。そこに、何かあるようですが、よくわからない! 龍神石がそこに祀られていた時期があったのかもしれません。

 森徳一郎氏が見た石がそれだったのでしょう。その迫力に満ちた龍の頭部を蝋燭の炎で見てみたいです!

 でも、それって、遥かな昔、弘法大師だったのかもしれませんが、「龍の頭部のような見事な石」が見つかったので、龍も祀る神社である「真清田神社」に奉納したというパターンではないでしょうか?

 遠山正雄氏が、真清田神社本殿後方の土壇に祀られていたと記述している、「神体石」。尾張の中心の神社の、そのまた中心にあったという、この石がすべての始まりだったというような神体石は、龍神石とは違う印象があるのですが、どうなのでしょうか?

 なんか、違う石のような気がしてきました。
 

Re: 事前調査

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月 7日(水)19時42分40秒
返信・引用
  > No.1117[元記事へ]

時空少女さんへのお返事です。


> 「記念植樹は1本でいいのに、なぜ3本も植えたの?」
> と思うことでしょう。
> 「真清田神社には、今は大神神社として分離されたが、三輪神が祀られていた」と調べてから行けば、ふ~んって感じです。

このような視点から見られるのが凄いなと思えます。さらに言えば、鎮座地がかつての美和郷であり、古地図に三輪鳥居が描かれているのを見れば、ふふふ~んって感じになりますね。
 

Re: 尾張氏のこと

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月 7日(水)19時38分51秒
返信・引用
  > No.1116[元記事へ]

時空少女さんへのお返事です。


> 尾張氏第12代(?)乎止與命が、本拠地をあゆち潟一帯に定めて・・・・でいいと思うのですが、問題は、初代~11代はどこで何をしていたかで、その11世代が、尾張地方にいなくて、乎止與命が尾張にやって来た初めての人なら問題ないですが、尾張地方開拓の祖は初代天火明命とされ、あゆち潟以外(仮にA、B、C、・・・)に尾張氏の足跡が残っています。
> この解釈には、

疑問の部分は全て説明が付くと思います。今日は時間がないので明日か明後日にでも纏めて書きます。

> 褒め言葉?

古代史は様々な切り口から見ないとなかなか答えが出ないのですが、それを苦もなくやっておられるし、綺麗に纏めておられるのであのように書いた次第。確か、持統上皇の三河行幸記事も書いていますよね。何も知らない段階で読ませていただき、とても参考になりましたよ。で、最終的には全く独自の視点で書きましたが…。
 

Re: 龍神石

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月 6日(火)10時26分45秒
返信・引用
  > No.1112[元記事へ]

チェリーさんへのお返事です。

色々調査いただいて御苦労さまです。結局…、
神体石=龍神石=真清田弘法=水精石で現在は八龍神社にある、と言うことなんでしょうね。真清田弘法の祠はからっぽのはずですけど、まだ何かありそうな気がしないでもないのですが…。
 

Re: 尾張氏のこと

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月 6日(火)08時54分6秒
返信・引用
  > No.1113[元記事へ]

時空少女さんへのお返事です。


> 「熱田神宮」に書いておきました。
拝見しましたが、尾張氏は年魚市潟一帯を本拠にした云々と書かれているだけなので、ごく一般的な説のように感じられます。私が興味あるのは今まで時空少女さんがこの掲示板で主張されてきた内容、尾張氏は天火明命かその御子が8氏族を率いて美濃から尾張に入り各氏族を尾張に配置し、氏族A、B、Cが同時多発し、最終居住地が年魚市潟周辺で、尾張氏=A+B+C+丹羽氏+物部氏であると言った点の論証なのですが…。尾張氏の始まりは非常に面白い(でも難しい)テーマであり時間が掛かっても構わないので、じっくり検討されたらいかがでしょう?一般の歴女さんたちのレベルをはるかに凌駕している時空少女さんの力量に期待していますよ。

私もブログで尾張氏に関して簡単に触れていますが、表面を撫でただけなのでいずれもっと詳しく検討してみるつもりです。



 

龍神石

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 5月 5日(月)23時33分40秒
返信・引用
  MURYさんが言ってみえた、森徳一郎氏の「真清田神社江戸時代の神宝と流出」1964年 が春日井市図書館にあったので、読んできました。この方は実物を見てるんだ!

以下に抜粋を載せます。漢字を一部直しています。

龍神石、伝弘仁年間弘法大師寄附

 龍の頭の如き天然石で、総高凡一尺、奥行一尺三寸位、頭部高凡五寸五分、下唇長く正面へ凸出し、一寸乃至二寸の水晶が、白き歯の如く並んでいる。
 明治二年廃物係佐分一ノ権から真野伝氏宛に譲渡の証券があり、以来数名転々し、いずれも不吉なことがあるとて名古屋覚王山に納まる。
 昭和五年二月二十五日、同寺位牌堂内に壮麗な厨子に鎮座するを森徳一郎拝見した。
 前記探桃集に水精石長一尺余、黒白相雑ルと見え、宝暦の目録には水晶石とあるもので当神庫に古くから在った事は知られるが、当神社と弘法大師の龍神雨請伝説に連想して「龍神石」と名づけられたのは、明治維新流出の際ではあるまいか。
 私は覚王山で拝見した時、あのほの暗い位牌堂の中央、大きな厨子の扉が開かれて、蝋燭の炎ゆらめく時、物すごい龍神の歯と突出した下唇に思わずハッとひれ伏した。

 以上です。

 龍神石は、水精石・水晶石とのことでした。古くから神庫にあった?これが現在真清田の八龍神社にあることになるんですね?

 日泰寺編 『覚王山日泰寺略記』 1959年 は鶴舞図書館で見たと思います。真清田弘法のことは書いてなかったと思ったけど…ごめんなさい、しっかりと覚えてないです…研究ノートを書いてなかったです…

 

Re: 真清田弘法

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 5月 5日(月)21時05分35秒
返信・引用
  > No.1110[元記事へ]

チェリーさんへのお返事です。

行基寺は是非行ってみたいと思っています。ただ、他にも行きたい場所がたくさんあって、結局行けないことになる可能性も多分にあります。
 

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