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Re: ふたつの「たつ石」

 投稿者:MURY  投稿日:2014年12月30日(火)15時14分28秒
返信・引用
  > No.1189[元記事へ]

KOSHIMIYAKEさん、こんにちは。

事例のご紹介と、貴重な資料のご提示をありがとうございます。
絵図があるのは素晴らしいですね。

「建石」の表記を持つ立石は珍しいのではないかとお見受けします。

私が知る限りでは、「建石」表記を持つ他例は、徳島県みよし市の中庄八幡神社の列石群を「建石」と記した文献があることぐらいです(『神社寺院明細帳』1917年)

基本的には、「立石」は「たていし」と読むと理解していましたが、栃尾の「建石」の読みは「たつ」で間違いないでしょうか?
栃尾には遠戚がいて縁を感じますので、機会があれば見てみたいものです。

年末のご挨拶もありがとうございます。来年もよろしくお願いいたします。
 
 

ふたつの「たつ石」

 投稿者:KOSHIMIYAKE  投稿日:2014年12月26日(金)18時23分28秒
返信・引用
  ご無沙汰しております、古志三宅三宅神社研究の管理人です。

あっという間に年末大晦日ですが、
今年は地元で岩石祭祀について大きな収穫がありました。

一つは「竜石」と記載されたところで、巨岩祭祀、三角錐形の大型塚を見つけたこと、
もう一つは地元から20km位離れた栃尾という地区で同じ「建石」と呼ばれる記録を見つけたことです。
二つの「たつ石」は20km位離れていますが、地名(金蔵山・妙見・榎峠・大平山・南荷頃・北荷頃)や
伝説(鬼伝説、遊女伝説)等、民俗学的に共通する項目が大変多いです。

地元「竜石」の方はHPにまとめましたが、「建石」の方はまだまとめていません。
そこで頂いた資料だけ写真に上げますのでご覧ください。
「建石」の資料は江戸時代末に地元の人が書いた絵図だそうです。
訳文は近日中にHPにアップする予定です。
「竜石」はリンク先をご覧ください。

「たつ石」はおそらくメンヒル巨石祭祀の原型ではないかと思います。
全国に分布しているのではないかと思いますが、
ご存知のことがあればお教えください。

それでは良いお年を。




http://koshimiyake.web.fc2.com/transmission_examine_4html.html

 

Re: 山姥の岩穴

 投稿者:MURY  投稿日:2014年12月 4日(木)23時32分0秒
返信・引用
  > No.1187[元記事へ]

>電子コンパス搭載となると、eTrex30J 60,000円クラスになっちゃう!

60,000円ですか…一気に値が上がるものなんですね。

> 何よりも「与喜山」の探索で威力を発揮するかも!と、勝手に思ってますが…

どんぴしゃです。私が買う理由は、もう、それしかありえません

> それにしても、右目の岩穴は自然のものですかね?こんなふうに穴があくのかなぁ?

わからないですねえ。人工に穿つならこの口径に開けた目的が気になります。仏像置くために?
個人的には自然でもありえると受け止めています。実際行ってみないと!というところですね。
 

Re: 山姥の岩穴

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年12月 1日(月)22時24分6秒
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  > No.1186[元記事へ]

MURYさんへのお返事です。

> あんまり詳しくないのでGPSの相場は知りませんが、電子コンパスは欲しいなあと思っています。

ガーミン製ハンディGPS については、iiyo.net というところが代理店のひとつですが、スペックと金額はここでわかります。電子コンパス搭載となると、eTrex30J 60,000円クラスになっちゃう!
そりゃ、いいっすよ!地図を収納できるもん!いいなぁ~
山に落としたのは、電子コンパス付いてたけど、30,000円クラスでした。もう今は売ってませんけど。防水になってたから、まだ使えるだろうなぁ~

何よりも「与喜山」の探索で威力を発揮するかも!と、勝手に思ってますが…

お話が変わりますが、「山姥の岩穴」の記事で掲載した上の写真ですが、4枚合成した写真なのですが、眺めているとですね、これが左目を失った山姥そのものではないかと思えてきました。

尾張本宮山から青塚・真清田神社・赤岩大神にラインが引かれているというお話を以前掲載しましたが、赤岩大神がある「養老山地」は隻眼(片目)の龍そのものだというお話があるようです。また、左目を矢で射られた蛇体の山姥が最後にたどり着いた「苧ヶ瀬池(おがせいけ)」には、その後片目の魚ばかりになってしまったという伝説があります。

もしかしたら、この岩こそが、「隻眼の龍」の伝説の元になっているのでは?と思ってしまいました。

それにしても、右目の岩穴は自然のものですかね?こんなふうに穴があくのかなぁ?


 

Re: 山姥の岩穴

 投稿者:MURY  投稿日:2014年11月30日(日)21時21分21秒
返信・引用
  > No.1185[元記事へ]

チェリーさん、メールで本宮山地図の添付もありがとうございました。
次回、本宮山へ行くときのルートファインディングに利用させていただきたいと思います。

GPSって使ったことなんですが、予想よりは安いなあと思いました。
いま金欠気味なのと、その前にデジカメが壊れ気味なので、購入はまだ先になりそうですが・・・
あんまり詳しくないのでGPSの相場は知りませんが、電子コンパスは欲しいなあと思っています。

登山サイトの山レコで、よくGPS記録をgoogle地図に落とし込んでいるのがありますよね。
ああいった感じで活用したい気があります。
 

Re: 山姥の岩穴

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年11月27日(木)23時47分17秒
返信・引用
  > No.1184[元記事へ]

MURYさんへのお返事です。

GARMIN(ガーミン) ハンディ GPS eTrex10J 【日本正規品】 ¥ 21,832 でした。

価格.com で見ると最安値 19,000円 でしたが、Amazonで購入しました。まあ、慣れたところで買ったわけです。

一番安いクラスなので、地図を入力することはできません。電子コンパスがないのは少し不便です。
でも、以前は樹林帯で使い物にならなかったのですが、今度はちゃんと軌跡を拾ってくれます。もっとも、同じ道を往復しても、最大30mずれていましたけど…
見晴らしのよい三角点は正確にマークできました。誤差はなかったです。

いままでのGPS衛星に加えて、ロシアの衛星からの電波を拾えます。その効果はまだ確認できていません。

地図に落とすにはカシミール3Dを使っています。

まだまだ全然使いこなしていませんが、とりあえず、満足しています。




 

Re: 山姥の岩穴

 投稿者:MURY  投稿日:2014年11月27日(木)21時33分15秒
返信・引用
  > No.1183[元記事へ]

以前ご紹介されていた山姥の洞穴、行かれたのですね。

道なき場所ということで、私が尾張本宮山に調べた時もこの洞穴の存在は見つけられませんでしたから、貴重なご報告です。

初めてこの山姥伝説を登山者に話されたという古老の方、とてもありがたい語り部ですね、。私もこのような方に道中出会いたいものです。
語り部は、今日び、そしてこれからどんどん、誠に得がたき存在となるでしょう。

ご参考までに・・・新しいGPS、おいくら万円でしたか??
 

山姥の岩穴

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年11月24日(月)01時50分25秒
返信・引用
  尾張本宮山には山姥の伝説があります。
山たまごさんという方のホームページ「山たまごの東海岳行」2012年2月18日に、山姥の洞穴発見の記事がありました。ここを訪れました。
記事中の「第2の洞穴」が山姥の洞穴だそうです。山道から斜面を見当をつけて登りました。道も踏み跡もありません。いくつかの岩をたどってみると、大きな岩壁と岩穴がありました(上の写真:下の青いストックは比較用)。
足場がないので、中を少ししか覗けないのですが、白い仏像があったように思えました(錯覚かもしれませんが)。真ん中の写真に顔と思われる部分が覗いていますけど…。
昔はこの洞窟の前に社があったとのことですが、現在では、ここに行くのは困難です。行き方を書くのはやめておきます。
尾張本宮山の頂上(大縣神社 本宮社)から参道を少し下ったところに「山姥青黄姫竜王社」があるのですが(下の写真)、ここと洞窟とは東西関係がありました。2m程のずれで収まるようです(166m離れています)。
実は、新しいGPSを試しに行ったわけでもあるのです。以前購入したのが11年も前なのですが、性能がUPしてる!歩いた軌跡が格段にきれいにとれてます(若干のズレはありますけど)。前は樹林帯の中ではサッパリだったのですが、これならMURYさんにもお勧めできるかもしれない!
資金に余裕があって買い換えたわけではありません。9月に登山道から転落してどこかに吹っ飛んでいってしまったのです…MURYさんの日記にある記事は他人事ではなかったのでした…
 

Re: ごぶさたしています。

 投稿者:MURY  投稿日:2014年10月22日(水)01時21分5秒
返信・引用
  > No.1181[元記事へ]

砥鹿神社・石座神社・石巻神社の記事など、岩石信仰に関わる場所が勉強になります。

石座石については、真清田神社の文献収集をしている中で、昭和の古い文献などを多少入手できましたが、まだ現地へ行けてないので、まずは見ないことには恥ずかしくて何も語れません。
 

Re: 石の哲学

 投稿者:MURY  投稿日:2014年10月16日(木)23時14分13秒
返信・引用
  > No.1179[元記事へ]

kokoroさん

激励のメッセージをくださり感謝します。

自分のやっていることに価値があるのなら、これ以上嬉しいことはありません。

岩石という素材を通して、人が生み出してきた様々な考えを、このサイトで掘り起こしていきたいと思います。
 

石の哲学

 投稿者:kokoro  投稿日:2014年10月15日(水)20時53分22秒
返信・引用
   お久しぶりです。

 石の哲学、始まりましたね。MURYさんはいつかこういうのを始めるぞ、と期待して待っていたのですが、その甲斐がありました。

 がんばって、コンテンツを増やしてください。応援します。
 

Re: 真清田神宝流出記

 投稿者:MURY  投稿日:2014年10月 2日(木)23時40分56秒
返信・引用
  > No.1177[元記事へ]

チェリーさん、ほのぼのありがとうございます。最高です。
これでweb上に記録が残り、誰しもが後で見ることができるようになりました。

>神社から出て民間を転々としたのち、名古屋市の覚王山日泰寺に安置されることに。

真清田弘法の経緯と、やっぱり似てますよねえ・・・

>ときを経て、日泰寺を訪れた三人の女性が、龍神石のいわれを知り、御神殿の造営に東奔西走。日泰寺境内の池に浮かぶ小島に完成後、手厚く祀られてきたといいます。

この出来事がいつか、はっきりしていなかったのですね。
この三人の女性は、なぜ「訪れた」のでしょうか。
「いわれを知り」・・・どうやって現地で存在を知ったのでしょう。日泰寺の誰かが教えたのなら、そのキーパーソンとは誰だったのでしょう。

>昭和58年には、ラジオ番組で民話として龍神石が取り上げられた

先の出来事と無縁ではなく、むしろ先の出来事が影響してと考えるべきなのでしょうか。
この出来事を、ほのぼのの記事の著者(文責がないのでこれも追えません・・・)はどうやって知ったのでしょうね。記録があるのか、人から聞いたのか。

>三女性の熱意が後押しし、元宮である真清田神社への遷座が決定。同61年には境内東にある神池の厳島社と並んで御新殿が建立され、「八龍神社」と名付けられました。

「熱意を後押し」は、本当の意味で後を押した(つまり運動の当事者)のか、文学的な表現として用いた(ほのぼのの著者が時系列から勝手に結びつけただけ)のか、この文面だとどちらとも取れます。
「ラジオ番組で民話として龍神石が取り上げられたことや、三女性の熱意が」と書いてあるので、返還の理由にはラジオと三女性の熱意の2つが同列併記されています。

八龍神社の創建に関わる記録が残っていれば、そこから龍神石返還経緯が判明するかもしれません。社誌を読んだときはどちらかというと三明神社の再建部分に偏って読んでいたので、こちら経由から再読する価値はありそうです。
 

Re: 真清田神宝流出記

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 9月30日(火)22時30分50秒
返信・引用
  > No.1176[元記事へ]

MURYさんへ

思い出しました!「ほのぼの」のpdf ダウンロードしてたんだ!!

ほんまち界隈 歴史こばなし
真清田神社と龍神信仰
 真清田神社の御祭神は、尾張開拓の祖である「天火明命(あめのほあかりのみこと)」とされていますが、古くは数座の御祭神を祀っていたという説があり、そのなかに「大龍王神」の名があります。農耕を行ううえで重要な“水利をつかさどる龍神”への信仰が、周辺に深く根づいていたと想像でき、現在祀られている「龍神石」は御神体か、もしくはそれに類するものとして大切に扱われていたと考えられます。
 江戸時代、第三代神主・佐分清円氏が享保18年(1733)に編述した「真清探桃集」に「水精石」(長さ一尺余り、黒白相雑)と記されるものがあり、これが龍神石を指すと思われます。
 明治初年の神仏分離令によって神社から仏教に関係するものが多く放出されることになり、龍神石も例外ではありませんでした。神社から出て民間を転々としたのち、名古屋市の覚王山日泰寺に安置されることに。ときを経て、日泰寺を訪れた三人の女性が、龍神石のいわれを知り、御神殿の造営に東奔西走。日泰寺境内の池に浮かぶ小島に完成後、手厚く祀られてきたといいます。
 昭和58年には、ラジオ番組で民話として龍神石が取り上げられたことや、三女性の熱意が後押しし、元宮である真清田神社への遷座が決定。同61年には境内東にある神池の厳島社と並んで御新殿が建立され、「八龍神社」と名付けられました。
       「ほのぼの」 一宮市商店街まちかどかわら版 2011.10月号 vol.3 より

昭和58年は遷座が決定した年だと読めますねぇ。それともラジオ番組が放送された年?小島に祀られたのはそれ以前と思われます。
そして、小島に祀った三女性が、真清田神社への遷座を、熱意で後押しした模様です。同じ人達なんだ!

でも、熱意で後押しって、なんのことなんだろう??
 

Re: 真清田神宝流出記

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 9月28日(日)22時43分20秒
返信・引用
  > No.1175[元記事へ]

>チェリーさん

龍神石は、あのスケッチの通りなら、神になるべくしてなった水晶石です。自然の妙技は人為を凌駕するといわざるをえませんね。

>日泰寺境内の池の小島に祀るべく運動をされた女性達と、真清田神社に返還する運動をされた女性達は、別と思っていたのですが(時代も)、どうなんでしょうか?

まちこん一宮の「ほのぼの」がなぜか見れなくなってしまって、残念なことです。まちこん一宮には再掲示のお願いをメールフォームから送ったのですが、1ヶ月経っても返事なし・・・。じゃあメールフォーム作らない方がいいのにと感じてしまいました。
あの記事のpdfをダウンロードしておけばよかったです。細部を忘れてしまいました。

日泰寺の小島にまつる運動をしたのが3名の女性たちだったと思います。
真清田神社に返還する運動をしたのも、女性たちでしたっけ?その辺がはっきりしていません。
年代的には両者の動きは近い(5年以内?)ので、同じ女性たちによる運動と見ることもできますが・・・。
たしか同記事には、このことの顛末がどこぞのラジオ番組で取り上げられたと書いてあった記憶があります。ラジオ番組では、後追いで私たちがたどることは難しいかな・・・

思うに、なぜこういった動きは記録に残らない(残さない)んでしょうね?
現代生きる我々も、歴史を創る当事者なわけですから、こういう動きには記録がなされてしかるべきだと、組織体である日泰寺や真清田神社に特にお願いしたいところであります。
 

Re: 真清田神宝流出記

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 9月22日(月)00時42分45秒
返信・引用
  > No.1174[元記事へ]

MURYさんへのお返事です。

 「龍神石」のイラスト見ました!
 これはすごい!映画の「エイリアン」ではないですか!ギーガーのデザインでしたね。
 でも、やっぱ、「神体石」ではないという印象をもちました。

 私は、3人の「信心深い女性たち」の話に引かれますね。日泰寺境内の池の小島に祀るべく運動をされた女性達と、真清田神社に返還する運動をされた女性達は、別と思っていたのですが(時代も)、どうなんでしょうか?

 少しでも調べてみたいと思います。

 

真清田神宝流出記

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 9月15日(月)21時44分37秒
返信・引用
  本日、一宮市立中央図書館へ行ってきました。
森徳一郎氏の著作、真清田の名前がつく文献を一通り総覧してきました。
新情報があったのでここで報告します。

森徳一郎「郷土史談(三二) 真清田神宝流出記(5)」 十六 龍神石」『一宮市公報』No.180~No.181(昭和10年)

過日、チェリーさん・酔石亭主さんが紹介してくださった『真清田神社江戸時代の神宝と流出』(昭和39年)の著者・森徳一郎氏です。この本よりも、龍神石の流出経緯について詳しく書かれていました。
龍神石のスケッチも載っています。まるで水晶どくろのようです。

さらに、龍神石には2通の添状が付属しており、そこに所有者の移転ルートが記録されていたことも発覚。

明治2年4月、真清田神社の佐分一ノ権が神仏分離のため「不要之神宝」となったため、眞野博氏に譲渡。
明治24年1月、眞野博氏が眞野眞四郎氏に譲渡。
大正4年1月、眞野眞四郎氏が長谷川鍬次郎氏に譲渡。
長谷川鍬次郎氏は覚王山東北にあった八十八ヶ所開山記念堂に奉祀。
昭和5年1月、八十八ヶ所開山記念堂から本坊位牌堂に移す。
昭和5年2月、森氏が長谷川氏の好意により、位牌堂の厨子の中に納められた龍神石を拝観し、その異形ぶりに「思はず眉を伏せ、且つ身慄くを覚えた」

今回注目したい最も重要な事実は、真清田神社が日泰寺へ最初に納められた施設は位牌堂ではなく、八十八ヶ所開山記念堂であったということ。
とても残念なのは、長谷川鍬次郎氏が八十八ヶ所開山記念堂に龍神を移した年月だけがこの記事から抜け落ちていることです。
しかし、森徳一郎氏が知人から「八十八ヶ所開山記念堂に、真清田神社の神宝であった霊石がまつられているから拝観しては如何」と教えてもらった時期が、昭和4年8月初旬と明記されています。
これまでの情報では、龍神石が日泰寺に来た時期は、昭和5年2月までしか遡れませんでした(日泰寺のインタビューでも昭和5年でしたよね。日泰寺が今持っている資料はやはり表面的と言える)。
それよりも約半年、龍神石が日泰寺に写った時期は早かったことだけは間違いありません。

昭和10年の記事ですから、まだ龍神石が日泰寺に来てから日が浅い時期で記述で、信ずるに足ります。
そんなこの記事によると、日泰寺は「将来鎮守として、改めて境内適当の場所に社殿を築いて奉祀する方針である」とのこと。
位牌堂からさらに、別の場所に移す考えがあるということです。

そうなると、真清田弘法の祠が、もしかして位牌堂の次に移設された龍神石の奉祀場?とも思えてしまいます。

昭和5年2月、森氏が拝観した後、本坊位牌堂の龍神石が境内別場所の真清田弘法として改めてまつられ、その2~3年後、遠山氏が風聞した頃には真清田弘法の話として完全に上書きされたと考えれば、龍神石=真清田弘法説は成立すると言えなくもない。

しかし、冷静に考えたいことがあります。
この森氏の昭和10年の記事の中でさえも、「真清田弘法」の五文字は一度も出てきていないということ。
昭和5年~昭和8年の間に真清田弘法ができたのなら、昭和10年に記事を書いた森氏から、真清田弘法の名称ぐらい出るでしょう。むしろ昭和10年の記事で「将来鎮守として、改めて境内適当の場所に社殿を築いて奉祀する方針である」と書いているのだから、昭和10年時点では龍神石はまだ位牌堂の厨子の中ということに他なりません。
さらに言うなら、昭和39年の『真清田神社江戸時代の神宝と流出』でも、龍神石は位牌堂の中にありという記述のまま抄録しているのだから、昭和39年時点でも龍神石は本坊位牌堂内なのでは。
だからこそ、後年、信心深い女性たち(この方々の詳細情報もよく分かりませんね・・・)が、日泰寺境内の池に浮かぶ小島に、祠を設ける運動を起こしたのでしょう。


昭和10年の森氏の記事と同時期資料である、昭和8年11月に遠山正雄氏が記した「尾張地方のイハクラに就いて」の中には、真清田弘法の名称がすでに登場しており、年に一度、虫干しの折だけ開帳されるとの話を載せています。それより後の、森氏の記事に真清田弘法の名が出ないのはなぜなのか。
それと関連する疑問として、この遠山氏の論文の方には、龍神石・水精石などの名前は一度も出てきません。

これは何を意味するのか?
龍神石が現在、真清田神社境内の八龍神社に返還されたというのに、日泰寺境内に現在も真清田弘法の祠がまつられているのは、どういうことを指し示すのか。


奇遇にも、覚王山日泰寺のホームページが近日、オープンする予定らしいです。

http://www.nittaiji.jp/

周囲から取り残された真清田弘法の歴史へ、目を向けていただきたいです。
 

Re: 真清田神社の神体石と真清田弘法

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 8月30日(土)23時04分56秒
返信・引用
  ごめんなさい!訂正です。

>  日泰寺を訪れた三人の女性が龍神石のいわれを知って、境内の池に浮かぶ小島に神殿を造営すべく東奔西走し、完成後にそこに手厚く祀られるようになったという、その池です。
>
>  道路を通すために、大きく埋め立てられちゃった!少し残ったのですが、小島の部分は道路になっちゃったのです。(現在は残りの部分も埋められて、駐車場になっています)
>
>  その小島が無くなっちゃった…道路ができた時期がわかれば、埋め立てられた時期がわかります。
>
>  昭和39年から昭和41年の間に道路ができて、小島はなくなってしまったと思います。

と、そのように掲示しましたが、その南北の道路は、それほど大きく池を埋めたわけではないようです。

国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」が、知らないうちに、とんでもなく充実してまして、名古屋の昔の航空写真が簡単に見られるのです!

以前から池を周回するように小さな道があって、そのうちの南北の道が広がっただけのようです。
むしろ、東西の道が大きく埋めたようです。

でも、そもそも島が写ってないのです。おっかしいなぁ~

少なくとも「昭和39年から昭和41年の間に道路ができて、小島はなくなってしまった」というのは間違いだと思います!ごめんなさい!! 
 

Re: 真清田神社の神体石と真清田弘法

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 8月20日(水)22時47分36秒
返信・引用
  > No.1171[元記事へ]

酔石亭主さんへのお返事です。

ありがとうございます。

そういえば、あま市七宝町に伊福という地名があったなぁと思ったら、「伊福部神社」がありました。
ここから真北にたどったら、一宮市の「伊富利部神社」がありました。
もっと北に進むと高富に着きましたけど…
関係ありそうですね!

村国神社のあたりは、何度も通っているはずですが、気がつきませんでした。
大きな芝居小屋があるみたいです。裏山は古墳群のようです!
やっぱ、各務原は奥が深いです!!
 

Re: 真清田神社の神体石と真清田弘法

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 8月19日(火)20時08分37秒
返信・引用
  > No.1170[元記事へ]

チェリーさんへのお返事です。

伊福部氏は山県市高富町に最も濃密に分布するものの、ここは彼らの本拠ではないと思います。全くの推測ですが、彦坐王に率いられた伊福部氏が各務原に定着し、仁徳天皇の時代に飛騨からの侵略者(両面宿儺)に対抗するため配置転換されたと考えています。その山県市岩西にいた伊福部氏が、元の場所である各務郡の伊波乃西神社に埋葬されたと考えると筋が通りそうに思えます。

村国氏では壬申の乱において美濃湯沐邑(現在の揖斐郡池田町)の兵三千で不破道を閉塞し、大海人皇子を勝利に導いた村国男依が有名です。村国氏が関係する神社としては村国神社、村国墨田神社が各務原に鎮座しています。各務原には秦氏もいるようで、興味が尽きません。

 

Re: 真清田神社の神体石と真清田弘法

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 8月18日(月)23時02分34秒
返信・引用 編集済
  > No.1169[元記事へ]

酔石亭主さん

 見ていただいて、ありがとうございます。
 伊福部氏なのですね!調べてみます。伊吹山に関連して名前はよく拝見するのですが、高富町が本拠地なんですねぇ。
 岐阜市の北の方ですね。すぐ近くの大龍寺には、満天星つつじを見に行ったことがあります。

 各務原の豪族は「村国氏」というんですね。これも調べてみます。
 MURYさんが「神秘の各務原」と呼ぶように、ここは信仰の場所がとても多くて、不思議です。少し山を歩けるとよいのですが、露岩も多いです。八木山の東の麓沿いに迫間不動尊までの間も、雰囲気があっていい感じです。

 私の「とんでもサイト」は、九州北部に突入したところです。いわゆるヤマタイ国関連になりますので、少し時間がかかるのですが、合間合間に地元の記事を載せていきたいと思っています。
 

レンタル掲示板
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