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真清田弘法

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 2月 2日(日)23時30分22秒
返信・引用
  日泰寺と真清田神社へ行ってきました。真清田弘法の祠と土壇も観察してきました。

日泰寺では本堂で僧侶の方が全員納経をしていた時で詳しい人がおらず、真清田神社も巫女の方だけで、タイミングは残念でした。

真清田弘法ですが、祠が2つあるのは何でしょうね?

稲沢市中央図書館で、『高蔵寺町誌』(本日UPした高座山の資料です)の複写のついでに真清田神社史編纂委員会編『真清田神社史』(1995年)に目を通しました。

本文編と資料編の分厚い2冊構成なので精読はできていませんが、重要かと思われるところをいくつか見出しましたので複写してきました。ここに一部をまとめて参考に供したいと思います。

<龍神石について>
真清田の龍神伝説があります。干ばつにあえぐ人々を救うため、弘法大師が雨乞をしたが効果がなかった。一頭の龍が現れ、雨を降らせようとしたら龍の命が必要だと伝えた。龍の命と引き換えに、龍を真清田神社にまつることを約束したところ、激しい大雨が降りだし、黒雲の中から龍の体が切れ切れになって落ちてきたので、弘法大師は約束通り龍神として真清田神社にまつった。こういう伝説です(ちなみに本書の考察では、弘法大師は真清田神社には来ていないということになっています)。
後日、真清田神社が龍神石を手放したところ雨乞いの御利益はなくなり、龍神石を手に入れた家では不幸が相次いだので、昭和5年(1930年)に日泰寺の位牌堂にまつった。
この不幸が続くあたり、遠山正雄氏が語る真清田弘法の顛末記と酷似しています。うーむ。
また、『真清探桃集』に記された「水精石」と龍神石が同一物であることをはっきり示す記述は見つけられませんでした。

<明治の神仏分離の影響について>
真清田神社の社僧が奉仕していた西神宮寺・菩提院・光徳寺の三寺が廃寺となり、その時に本尊の仏像や堂宇・仏具などがすべて売却されたほか、真清田神社が保管していた神宝類のうち、仏教色がある経文・掛軸・仏舎利なども流出。

<三明神社について>
『真清田神社古絵図』(室町時代製作と推定)に、本宮の西側、西神宮寺の北に描かれた宝形造の寺院風の建物が三明神社であると書かれていました。この建物は享徳4年(1455年)に火災で焼失し、『真清探桃集』を著した真清田神社宮司の佐分清円が言うには、この時点で三明神社の社殿は廃絶したというそうです。
三明神社は「如意の珠」「護国の珠」「辟鬼の珠」の「三種の明玉」をまつり、宝珠の存在を秘するために三明珠の宮とは言わず三明神宮と称したと『真清田宮御縁起』巻上(室町時代製作と推定)に記されています。そして社殿焼失後は本宮の内陣に遷御したことが、江戸時代における本宮正遷座の行列からわかっています。
三明神社は「古くからの由緒に因んで、平成五年三月に本殿の真後に再建された」(687頁)
という記述がありますが、この「古くからの由緒」というのは別の頁を読むと、「古来単独の摂社として祭られてゐた」(853頁)という意味の由緒であり、土壇上が元来の鎮座地であったという意味ではないようです。土壇のことは「本殿背後北門脇の浄地に着工された」(854頁)と一言触れられているだけで、土壇の存在や選地理由は触れられておらず深読みはできません。

<『真清田神社古絵図』に描かれた本殿裏の3つの鳥居について>
『真清探桃集』巻之第一によれば、真清田神社の社殿を建てた時に、鳥居形の雲が出現して、社殿の後ろに降りたことから3つの鳥居ができたといいます。著者の佐分清円いわく、昔は社の後ろに三の鳥居があり、後世悉く亡びて今は僅かにその遺跡が残るといい、諸社が社の前に祠を持つのに対し真清田神社が社の後ろに鳥居を持つのはこの由縁によるものと言っています。遺跡というのは何でしょう。これが土壇を指すかどうかまではわかりません。
古絵図には、3つの鳥居と本宮の間に祠が描かれています。この祠に関しての記述ですが、唯一あったのはこれが「摂社」であり、かつて四別宮八十八末社あったといわれる多くの摂末社が衰微した一例だということ。しかし何の摂社までかは触れられていませんでした。三明神社は西神宮寺の北に描かれているので、三明神社でもない社であり、八十八末社の鎮まる場所からも外れているので、名が伝わっていない祠となってきます。


そして、この『真清田神社史』の本文編と資料編で一番注意して追っていた字は「真清田弘法」の5字ですが、ついぞ1つも見つけることはできませんでした。
むしろ、日泰寺の発行する由緒や書籍から、真清田弘法の記録をたどるほうが結果が出るかもしれません。
稲沢市中央図書館には日泰寺の創建について書いた書籍が1冊あるようでしたが、これもタイミング悪くどなたかが借りていました。
そもそも稲沢市で探す必要はなく、千種区のほうの図書館で資料集めしたほうがいいということでしょうね。

物部神社について、かつて移転前の旧サイトでレポートをUPしていたので、本日改めてUPしてみました。
延喜式の物部神社と呼ばれたのは明治時代からで、江戸時代までは石神堂というのが通り名だったようです。閃緑岩とされています。
戦前の話では、大隈鉄工所にある石とつながっていたという話だそうです。
この手の「小石が、地中深くで根を張っていたり、どこか遠くの場所とつながっている」伝承は全国各地にみられます。ある程度、民話としてありうる型の1つと見て良いと思います。
私の集成表からリストアップしておきます。

神石白石/しろ石 宮城県白石市
根白石 宮城県仙台市
要石 茨城県鹿嶋市 鹿島神宮
要石 千葉県佐原市 香取神宮
立石/立石様/立石祠/立石稲荷神社 東京都葛飾区立石
瑞光石 東京都荒川区南千住 素盞雄神社
蛙石/蛙石明神 神奈川県小田原市 北条稲荷
石の木塚 石川県白山市石立町174
牛石(三島七石) 静岡県三島市大宮町 三嶋大社
天の岩戸/恵利原の水穴 三重県志摩市磯部町恵利原
瓜生石 京都府京都市東山区林下町 知恩院
女夫岩 京都府北区上賀茂女夫岩町
建石/皇護石/列石/磐境/結界石 徳島県三好郡東みよし町中庄 八幡神社
三柱石 大分県宇佐市安心院町 三女神社
 
 

Re: 物部神社の磐座

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 2月 2日(日)16時33分27秒
返信・引用
  > 名古屋市東区筒井3丁目31-21に鎮座する物部神社は大石が御神体となり、社伝によれば神武天皇がこの地を平定したときに見つけた石で、これを国の鎮めにしたとのことです。残念ながら大石は社殿の下にあり見ることはできません。

  物部神社は社殿の下に岩石があるのですね。無くなっちゃったんじゃないんだ!「尾張の人は…」なんてひとくくりにして悪口を言って申し訳ありませんでした。ちゃんと大切にしてるところもいっぱいありますもんね!

 日泰寺さんに電話をして「真清田弘法」について伺ってみました。とてもていねいに応対していただいて感謝しています。
 御開帳の日程は決まっている訳ではないそうです。「御開帳かなぁ?」と言ってみえました。開いて中のお姿を拝見することができるのかどうかわからないようです。世話人の方がみえて、その方の連絡によって、お経をあげに行かれるのだそうです。いつも世話人の方からの連絡によるそうですので、連絡先はすぐにはわからないようです。年に1回というわけでもなく、もう少し多かったと記憶しているとのこと。
 場所としては、真清田弘法は、ぎりぎり境内に入るとのことです。

 また、何かわかりましたら掲示します。


 

物部神社の磐座

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 2月 1日(土)19時08分27秒
返信・引用
  MURYさん、チェリーさん

磐座や神体石に関しては、今までその意味などを特に考えることなく、神社の謎解きの際、単に大きな磐座だとか、凄い巨木だと思いながら見ていただけでした。
そうした中にもこれは何だろうと思うものがあり、以下は既にご存知かもしれませんがご参考まで…。

名古屋市東区筒井3丁目31-21に鎮座する物部神社は大石が御神体となり、社伝によれば神武天皇がこの地を平定したときに見つけた石で、これを国の鎮めにしたとのことです。残念ながら大石は社殿の下にあり見ることはできません。

この大石は国の鎮めとしたので要石と称され、世に根なし石とも伝えられるとのことです。神社の清掃をされていた方にお聞きしたところ、根なし石の名前通り石の下部は巨大な岩盤となって桜通のずっと西側まであるため、地下鉄工事の妨げになって大変だったそうです。

私は尾張氏と物部氏の関係を探るためこの場所に行ったので、磐座に関しては話を聞いただけのことですが、もっと奥深いものがあるかもしれません。
そもそも名古屋市のほぼ中心部にそんな巨大岩盤が実際に存在しているとすれば、どんな地質状況(熱田層なら泥層、砂層のはず)になっているのでしょうね。
今のところ私の中では疑問が残る状態のままになっています…。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/

 

真清田弘法

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 1月31日(金)23時27分16秒
返信・引用 編集済
   真清田弘法の説明板を読んで、よくわからなくなってしまいました。
 この小さな社の中にあるのは、尾張一宮である真清田神社の「御神体」という、とんでもない石だという事になると思います!すごい!! でも…

 真清田神社に弘法大師空海が納めたとあります。あれ?そのときに神社は建っていたのでしょうか?
 廃仏毀釈で流出したとのことですが、逆に神社の御神体は大切にされるのでは?

 うーん…わからないです。龍神石の話と混ざっちゃってるんじゃないのかなぁ。
 どちらも同じ頃に日泰寺に持ち込まれるなんて、信じられないような気がするし…

 龍神石が日泰寺で祀られたという池は「姫ヶ池」だと思います。東側に池があったと記憶しています。埋め立てられちゃったけど。片道2車線のおっきな道路が通る前は、もっと大きな池だったんだろうなぁ。

 小牧山の七つ石にしても、他にもあったと思うけど、尾張の人は石をどっかに持ってっちゃうと思います。それはいかんでしょう?石に対する「信心」が足らないと思うのです。

 真清田神社の御神体の石なのです。事は重大です。少しでも続けて調べてみようと思います。
 

真清田弘法

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 1月30日(木)22時57分10秒
返信・引用
  >酔石亭主さん

水晶玉に関する説明ありがとうございました。
とても論立っていて納得しました。
水晶かどうかまでは断定できませんが、小さい石であることは間違いなさそうですね。

水晶玉であったとしても、神体石ということでよいかと思います。水晶玉は素材名で、神体石は機能名ということで。

静岡県榛原郡川根本町に、こだま石神社という神社があります。近くの洞穴で砂金を採掘した時に出た鉱石をこだま石と呼び、神の依代としてまつったのが起源といいます。こだま石は真綿と和紙でくるまれ秘匿されています。
「こだま」つながりですが、長野県長野市の玉依比売命神社の神宝に児玉石と呼ばれるものがあり、簡単に言えば古墳時代の勾玉類を一括して神宝にしています。年々玉の数が増減するといい、「成長する石」「満ち欠けする石」信仰の一例として取り上げられることもあります。

小さい石に神やタマが依りつく信仰は往々にしてあるので、石の大小は私はまったく気にしていません。
一般に語られるイワクラや神体石のイメージはなかなか固定観念化されており、それを脱却させたいとこのサイトを通じて活動しています。


>チェリーさん

真清田弘法の説明板を全字掲示していただき、誠にありがとうございます。お手数もおかけしました。
念仏石ではなく、念持石だったんですね。
遠山氏の話によると、年に1回開帳して虫干しするということから、やはりこの祠の中にあるんでしょう。

一度、機会を見て真清田神社と真清田弘法へ参りたいと思っていますので、日泰寺の方に真清田弘法のことを聞き取りしてみようと思います。

話は変わりますが、春日井市の高座山の高蔵神社が熱田高蔵の奥の院で熱田のほうにも「磐座」らしきものがあると記した文献、稲沢市中央図書館でコピーをかつてしたのですが、今家の中を探しているのですがどうしても見つからず、もう一度コピーしてこようと思っています。その時にでも・・・。
 

真清田弘法

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 1月26日(日)19時31分38秒
返信・引用
  チェリーさん

真清田弘法の詳しい紹介有難うございます。
この内容だけでブログの記事になりそうですね。

さて、縁起によれば弘法大師が持ち込んで崇納した念持石となり、また本地は難陀跋難陀の二大竜王と言うことなら、やはり真清田弘法は小さい石であり、また竜王の像容は水晶の宝珠を手に持っている場合がかなりあることから、水晶玉の可能性が高そうです。

また写真の祠は小さいようなので、この面からも中に安置できるサイズは決まってきます。
あくまで一般論ですが、神体石の場合サイズはメートル単位になるケースが多いと思います。

最終的には祠の中を見ないとわからないものの、状況証拠からは水晶玉の可能性が高いと思われます。
なお、縁起は必ずしも事実を伝えるものではないので、弘法大師が崇納したと断定はできません。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/

 

真清田弘法(名古屋市千種区)

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 1月26日(日)02時32分8秒
返信・引用
   真清田弘法の社は日泰寺の東側の斜面にあります。覚王山八十八ヶ所(明治時代に石造物の寄進で知られる伊藤萬蔵氏らが覚王山の境内に弘法大師八十八ヶ所を設けることを発起したことに始まるとのこと)の密集地の中にあります。

 上の写真は日泰寺、真ん中の写真が真清田弘法、下の写真が説明板です。
 説明板の記事を載せます。(■は、漢字がわからなかったところです)

 真清田弘法大師縁記
 御神殿に奉安せるは昔弘法大師巡錫の砌り尾張一の宮真清田神社に崇納し奉る念持石にして真清田神社の御神体なり
 明治維新廃仏毀釈の際神社より分離し爾来■に護持し其の縁由により真清田弘法と称すれども本地には難陀跋難陀の二大竜王也経に曰く此の二大竜王は首上に七頭竜あり通力自在にして我を念ずる者は願いに応じて衆生を利益し給う
 其の誓願に曰く
 一には命欲を離れて我を祈念する者は福を受くること佛に等し
 二には瞋恚を離れて我を念ずる者は寿を迎えて保つこと佛の如く成らむ
 三には愚■を離れて我を祈念する者は楽を受くること佛の願に等し

 この小さなお社の中に何があるのでしょうか?それが答えになるのではないでしょうか。

 日泰寺と弘法大師空海との関係も、よくわかりません。
 日泰寺(にったいじ)は明治時代に建てられたお寺です。(日本とタイの意味です。1898年に発見されたお釈迦様の遺骨を分けていただいて、祀る寺院です。日本唯一の超宗派寺院で、19宗派の管長が輪番制によって3年交代で住職を務めるのだそうです。)ただ、尾張四観音を結ぶ「四観音道」のうち、笠寺観音と龍泉寺観音を結ぶ道沿いになります。
 そういえば、龍泉寺も最澄の創建とか、空海の開基とかのようです。ここも龍に関連します。この道は更に続き、東谷山の麓を通り、尾張徳川家初代義直公の廟所(定光寺)の近くを通り、多治見に至ります。

 
 

神体石

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 1月24日(金)21時02分24秒
返信・引用
  MURYさん

詳しい情報ありがとうございました。お蔭で話の筋が少し見えてきたような気がします。
まず三明神社の三明とは三種の明珠(透明で曇りのない玉)に由来します。
『真清探桃集』の「水精石」(長さ一尺余り、黒白相雑)とは、黒と白の入り混じった水晶玉を意味すると思われます。
近年八龍神社に戻された神体石が龍神石と称せられる点も、それが水晶玉であれば、龍は玉を咥えていたり前脚で掴んでいたりする像容が多いことからすんなり納得できます。

次に、本殿裏の土壇上の神体石に関して考えてみます。
神主家の者がそっと持ち出して家で祀りたくなるようなものなら、磐座的な大きい石ではなく、小さくてそれ自体が価値のある品のはずで、水晶玉ならピタリと当てはまります。
三明とは本来仏がそなえる三つの智慧を意味していることから、仏教的な匂いがします。
真清田弘法が念仏石と称されるのもそうした背景によるものと思われます。
この神体石は空海と関連付けられ、真清田神社においては空海と龍の伝説があるため、龍神石と同様に水晶玉と考えて不合理ではありません。
古図の土壇上の祠が三明神社であるとすれば、そこに祀られているのは明珠(水晶玉)となります。

ただ問題点もあり、江戸末期から明治初期に編纂された尾張名所図会では三明神社は拝殿に向かって西側に鎮座しています。
神主家の者が持ち帰ったのは時代的に見て、土壇上ではなく拝殿西側に鎮座していた三明神社の水晶玉であるべきです。

遠山氏は「古来御本殿の後ろの森の中の土壇上に、厳重にお祀りしてあった処の御神体石」、「古図をよく見れば、壇の上のホコラの前の鳥居が三基並立して居ます」としていますが、全体の記述は真清田の神が大和国三輪明神である点に主眼を置いていると思われます。
このため、古図の時代土壇上(の祠=三明神社)にお祀りしてあった御神体石に着目し、そのホコラは明治期には拝殿西側に移っている点を見過ごした可能性があります。
以上から、古図の時代に土壇の上の祠に厳重に安置されていた神体石は三種の明珠の一つ(水晶玉)であり、磐座的な神体石ではなかったと推測されます。

三明の仏教的な意味合いからして、宮地の大神神社における三明神と真清田神社の三明神社は早くても神仏習合が広まって以降のものになると推測され、この面からも磐座とは関係なさそうです。
纏めれば、2つの神体石はいずれも明珠(水晶玉)で元は三明神社から出たものであり、どんなに早くても8世紀以降のものとなり、大物主神や磐座信仰の神体石とは関係がないと言えそうです。

ただ、三輪山の神は蛇神であり大神神社では玉子をお供えする場所もあります。
そうしたことが深源にあって、三明神社が建てられ、真清田神社の様々な龍神伝説の基になった可能性は否定できません。

チェリーさん、

愛知の数多い謎や不思議をこれからも解明したいですね。

馬引はグーグルのストリートビューで見ても特に目立ったものはありません。
秋葉神社がありますが、ごく小さな祠です。
なので、空振りにならないよう、事前に図書館で郷土史をチェックするなりしてから行かれた方がいいように思います。
もちろん、現地で地元の人に話を聞いてあっと驚く情報を得られるケースもままありますが…。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/

 

(無題)

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 1月24日(金)02時18分20秒
返信・引用
  補足です。

龍神石は神宮寺の所蔵物だったから神仏分離で流出し、
土壇の神体石は弘法大師所縁のいわれが付帯する石だったので流出した

龍神石は平成元年に八龍社に復したが
土壇の神体石は今も日泰寺の真清田弘法としてまつられており、真清田神社に戻ってはいない
 

(無題)

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 1月24日(金)02時08分16秒
返信・引用
  酔石亭主さん

>遠山氏の言う本殿後方の土壇上に祀られていた「御神体石」は、真清田神社のホームページによれば近年同神社に戻されたようですね。

びっくりしたのですぐ真清田神社のHPを見に行きました。
龍神石の情報を初めて知りました。教えていただき感謝しています。

ただ、どうやら龍神石と土壇の神体石は別のようです。
いくつかのwebページで検索した情報をまとめておきます。

~~以下引用~~

「厳島社に合祀されていた八龍神御神体の龍神石が明治初年に流出し、名古屋日泰寺に祀られていたものが返還されたのを機に、平成元年八龍神社として創祀されています。」
http://www11.ocn.ne.jp/~hamy/masumida2.htm

「八龍社(はちりゅうしゃ)
平成元年(1989年)10月創建。
明治元年(1868年9当時、別当境内神宮寺所有の龍神石は該寺廃寺の為に撤去され、名古屋千種日泰寺に移転させられたが、元来は該社神石だった事から該社への返還が成立し祀った社。」
http://4travel.jp/travelogue/10770315

「江戸時代、第三代神主・佐分清円氏が享保18年(1733)に編術した『真清探桃集』に「水精石」(長さ一尺余り、黒白相雑)と記されるものがあり、これが龍神石を指すと思われます。」
「神社から出て民間を転々としたのち、名古屋市の覚王山日泰寺に安置されることに。ときを経て、日泰寺を訪れた三人の女性が、龍神石のいわれを知り、御神殿の造営に東奔西走。日泰寺境内の池に浮かぶ小島に完成後、手厚く祀られてきたといいます。」
http://machicon.or.jp/test/wp-content/uploads/2013/02/201110-03hono1.pdf

~~以上引用~~

龍神石が、真清田神社の神体石ではなく境内の八龍社の神体石で、江戸時代には「水精石」という名前で、明治の神仏分離のため今はなき境内の神宮寺に所蔵されていたこと、信仰心篤い女性たちによって返還運動があり、平成元年に八龍社として復したことがわかります。

一方、真清田弘法の縁起は、真清田神社の神体石であること、念仏石という名前があること、明治時代に神社の手を離れたことなどが読み取れます。
http://bennybebad.hatenablog.com/entry/2013/02/06/212849

石が1つではなく、土壇の神体石と八龍神の神体石の2つがあり、それが明治時代の神仏分離の中で両方とも流出したという同じ経緯をたどったようです。

また、三明神社が元来土壇上に鎮座していたかどうかまでは、まだ断定できないところです。
遠山氏の考えは、土壇の上の神体石を大物主神の神体石とみなすものです。
ただ、遠山氏は、三明神社の存在を知らなかったか注意を払っていなかったか、三明神社のことは一言も触れていません。
私が気になるのは、遠山氏の話では土壇の上に直接石がまつられているような内容であるのに対し、絵図では祠が描かれていること。少し景観に隔たりがあります。
この絵図の祠を三明神社と見るべきか、神体石を安置するための覆屋と見るべきか。本宮の荒魂を大物主の荒魂と推測を飛ばせば、両者がイコールでつながらないこともないですが・・・。
 

Re: 大神社

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 1月23日(木)23時49分19秒
返信・引用
  酔石亭主さんへ

> 遠山氏の言う本殿後方の土壇上に祀られていた「御神体石」は、真清田神社のホームページによれば近年同神社に戻されたようですね。

本当だ!八龍神社のところをクリックしたら、そう書いてありましたね!

 一年でこんなに調べるなんて、すごいとしか言いようがないです!私なんて何十年も住んでいて、何にも知らないです。性海寺のことも、酔石亭主さんがきっかけで見つけただけです。こちらこそ宜しくお願いいたします。
 愛知県も不思議や謎がいっぱいです。犬山市にある青塚古墳(県下第二位の大きさ)なんか、真清田神社と尾張本宮山を結んだ直線の真下になるんですよ。

 一宮市の「馬引」には、行ってみようと思います。楽しみです!!

 

大神社

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 1月23日(木)19時43分7秒
返信・引用
  チェリーさん

そうですね。簡単にギブアップすべきではないのでしょうが、なかなか難しくて…。
性海寺は知りませんでした。貴重な情報ありがとうございます。
何しろ愛知に来てまだ1年ちょっとですから、知らないことが多すぎます。
これからも宜しくお願いします。

MURYさん

遠山氏の言う本殿後方の土壇上に祀られていた「御神体石」は、真清田神社のホームページによれば近年同神社に戻されたようですね。
ただ不可解なのは、神体石の名前が龍神石になり境内社の八龍神社に収められたことです。
遠山氏の説が正しければ、三明神社に収めるべきで、そうなっていないのは真清田神社側の作為かもしれません。
神体石の由来は四つの可能性が推定されます。
1. 本殿後方の土壇上に祀られていた大物主神の神体石。
2. 天火明命が八頭八尾の大竜に乗って降臨したことにちなむ神体石。
3. 八ツ白龍神である億計王(後の仁賢天皇)にちなむ神体石。
4. 空海の龍伝説にちなむ神体石。
1のみが原初の神体石で、2~4までは龍に関係することになり、どう考えればいいのか悩ましいところではあります。
私としては最も古い1と考えたいところです。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/

 

Re: 大神社

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 1月21日(火)23時16分16秒
返信・引用
  書き忘れました。「性海寺」は「大神神社(一宮市)」の真南でした。179.98°です。以上です。  

Re: 大神社

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 1月21日(火)22時40分22秒
返信・引用
  酔石亭主さんへ

> とても残念ですが、当面ギブアップするしかなさそうですね。

 いえいえ、「お手上げ」とするのではなくて、一時「棚上げ」といたしましょう!

 昔真清田神社から参道を南に進んで、二宮を通過して、同じ方向に進むと三宮という文字を見た記憶があったのですが、ここだったかな? 愛知県稲沢市大塚の「性海寺(しょうかいじ)」、その境内に「三宮社」がありました。

 「性海寺」は空海の創建、境内に古墳もあります。お寺、神社、古墳、あと岩石があれば完璧なのですが…アジサイ寺として有名なようです。
 三宮社と大神社と真清田神社が直線で並ぶとよいのですが、少しずれますね(残念!)。でもここを起点とするラインを発見しました。224.98°に「野志里神社」(三重県桑名市多度町)が位置するのです。倭姫が4年間滞在した元伊勢「桑名野代宮」比定地です。ラインは「津島神社」の真上を通ります。

 というように、いろいろ手がかりが見つかると思います。

 ブログ拝見しています。面白いです!私には少々難しいのですが、わかるところだけ読んでます!

> 猿投神社に関連して、瀬戸から明智町に向かう途中に柿野温泉があって白鳥神社が三社鎮座しており祭神は倭建命(=日本武尊)です。

 「柿野」という地名も注目してみますね。

 日の出を拝むのに、山はあまり近すぎない方がよいのかもしれません。

 添付した図は奈良の「多神社」からの春分の日の日の出です。三輪山の頂上からは少しずれてしまうようです。
 

大神社

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 1月20日(月)21時22分44秒
返信・引用
  チェリーさん、MURYさん

画像まで入れて種々検討いただき有難うございます。
やはり難しいですか……。
高座山は高座結御子神社の祭神・高倉下との関係があり該当しそうにありませんし、大神社の現場から見ても日の出を遙拝するには遠すぎます。
とても残念ですが、当面ギブアップするしかなさそうですね。
それと、昨日大神社関連等をアップする予定でしたが、時間がなく今日になってしまいました。
ほとんど書き散らし状態ですが、お時間があったらご覧いただければと思います。

津島神社と猿投神社、猿投山はいずれも去年行きました。
猿投神社に関連して、瀬戸から明智町に向かう途中に柿野温泉があって白鳥神社が三社鎮座しており祭神は倭建命(=日本武尊)です。
「熱田神宮の謎を解く その39、その40」にて書いたのですが、岐阜県山県市柿野1318番地に鎮座する清瀬神社やその他の神社も同様に小碓命(日本武尊)や大碓命が出てきます。
土岐市鶴里柿野。山形市柿野。同じ柿野に同じ神が祀られているのがとても不思議です。
レイラインで何か解けるものがあればいいのですが……。

聖武天皇と行基のレイラインは面白そうです。
行基はまだ検討したことがないものの、秦氏と関係がありそうで、平安京の鬼門ラインは秦氏が事前設置したと考えています。
聖武天皇の大仏建立にも秦氏の関与があり、聖武天皇・行基に秦氏を絡めると色々出てくるかもしれませんね。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/

 

大神社(愛知県一宮市)

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 1月20日(月)02時02分58秒
返信・引用
  酔石亭主さんへ

 大神社他の情報ありがとうございます。
 私がやっているのは、レイラインの範疇に入ると思いますが、限定的なもので、そんなに詳しくはないです。でも、興味を持っていただいて、うれしい限りです!

 大神社の位置についてですが、とても難しいです。なかなか有意な角度が見つかりません。

 一宮市木曽川町に「伊富利部神社」があります。大和の葛城山麓の人々が移住してみえたと伝えられているとのことですが、大和の金剛山山頂からここまでが、44.88°になります。神社は100m程遷座しているようですが、やはり、45°の方向に進んで場所を定めたと想定できます。
 私は「平行投射」と呼んでいるのですが、同じようにどこからか「大神社」に到達したと仮定すると、その出発点は「高松塚古墳」になっちゃう(44.99°)…または、「酒船石」か。うーん これは、ありそうもない話ですねぇ。

 もっと象徴的な山とかないかなと思うのですが、桜井市の「鳥見山」でもいいのですが、標高が小さすぎるしなぁ…といった具合で、まだ、見つけていません。

 あまり得意ではないのですが、「大神社」が太陽の運行から定められたと考えた場合、候補になるのは春分・秋分の日の出の方向で、添付した図は、今年の春分の日の「日の出」です。愛知県春日井市にある高座山頂上近くにある「高蔵神社」の近くから昇りますが、どうなんでしょうか?

 「大神社」は、地図で見ると「真清田神社」からの参道を南の方につたった道沿いになるようですので、こことは関連があると思います。

 ここまでくらいしかわからないです。でも、今後わかってくるかもしれないです。次回のブログに載せますが、津島神社と猿投神社もやっと最近有力候補が見つかったところです。大神社についても、この先もっとよい直線が見つかったら報告しますね。

MURYさんへ

 私はとてもではありませんが、尊敬に値するような者ではないんです。でも、応援していただいたことを力にして長く続けていきます。本当にありがとうございます。

 文献に何も残っていないことについてですが、やはり、表には出さないことになっているのだと思います。聖武天皇が朝敵ともいえる行基さんと手を携えたことや、大僧正に抜擢したこと、また、都を何度も移ったことなど、謎とされています。これもすべて隠されているのだと思っています。このお二人がなんと、日本最大の「レイハンター」だったという説明をしていくのですが、やっぱり「トンデモ話」になるんじゃないかなぁ…

 最後に、「大神社」を始点として逆に南西の方向にラインを延ばすと、何と、そこは「与喜山天神社」だったのです(224.99°)!!でも、いくら何でもこれはないでしょう。「どんなに精度があっても偶然に過ぎないことがある」といった例になってしまいました。
 
 

真清田神社

 投稿者:MURY  投稿日:2014年 1月19日(日)16時30分27秒
返信・引用
  チェリーさんのブログの、大神神社(愛知県)と三輪山の45度ラインは有意性があると思っています。チェリーさんがおっしゃられるように、こうした歴史的に関係性を持ったラインをたくさん出てくると良いなと思っています。

何年か前にこの掲示板で書きましたが、天文学・測量学は私も専門外で、私のフィールドである歴史学の視点から見ても、説得されるようなラインの登場を待っているのです。
なので、チェリーさんの謙虚で玉石関わらずデータを蓄積し続ける姿勢を尊敬しています。

私が歴史学的な問題意識から長年抱き続けている疑問は、なぜ聖地選定をラインで結ぶという当時の人々にとって緻密な下準備がされたのに、文献記録にはそのようにしたという事績の記述がないのか、あるいはそれをにおわせる記述がないのかです。
もちろん、書かれていないから=ラインは偶然という等式は成り立たないです。記録に残さないことに意味があったかもしれませんし、古い時代の聖地選定なら文字記録がないこともあるでしょう。
中近世以降のポイント選定なら、莫大な文字記録がこの国には残っているので、触れられてしかるべきという考えを持っているのですが・・・。
 

真清田神社

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 1月18日(土)19時18分11秒
返信・引用
  チェリーさん、MURYさん

チェリーさんの大神神社と三輪山のレイライン記事を拝読させていただきました。
チェリーさんの記事はトンデモ話などではありませんし、それどころか記事に関連しそうな以下の問題を何とか解明できないかと思案しています。

一宮市大和町於保郷中2311には大神社(おおじんじゃ)が鎮座しており、多氏などの祖神である八井耳命が主祭神となっています。
一方、多氏が祀る多神社は奈良県磯城郡田原本町に鎮座し、その鎮座位置が三輪山山頂の真西となり、三輪山の春分、秋分の日の出を多神社から拝することができます。
多氏は三輪山の太陽祭祀に関与し、三輪氏との関係が想定され、彼らと共に尾張に移住したと考えられます。
だとすれば、三輪氏と多氏は尾張において大和と同様に太陽を祭祀していた可能性が浮上します。
さらに、一宮市大和町馬引にはなぜか乾出(いぬいで、北西)、郷戌亥(いぬい)、郷辰巳(たつみ、南東)、郷丑寅(うしとら、北東)、郷未申(ひつじさる、南西)などの方位地名が存在します。
上記したような方位地名は全国でほとんど一宮市と稲沢市のみに集中しています。旧海部郡美和町にも同様に戌亥の地名あることから、三輪氏と方位地名が関係するようにも思えてきます。

これらを総合的に太陽祭祀やレイラインで説明・解読できれば実に面白いと思うものの、残念ながら私の手には負えません。
レイラインに詳しいチェリーさんにお助けいただけないものかと…。
なお、大神社やその他の問題に関して明日にでも詳しくブログに書こうかと思っています。
厚かましい話で恐縮ですが、もし時間があればで結構ですから、ご意見等宜しくお願いします。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/

 

真清田神社

 投稿者:チェリー  投稿日:2014年 1月17日(金)23時03分21秒
返信・引用
  酔石亭主さん・MURYさん

 奥深い話ですねぇ!半分くらいしかついていけないですけど…

 土壇の場所が、始まりの場所で、一番大切な場所なのですね!本殿の真後ろに摂社を建てるわけがないですものねぇ。逆にこの場所の前に、後から巨大な社が建っていったということなのでしょうか。それにしても三輪鳥居があったとは!見てみたかったです。

 大神神社の説明板に三明神社のことが書いてありました!自分のブログでも大神神社をとりあげているのですが、これが、その、なんというかトンデモ話のブログでして…ご紹介するのがいいのか悪いのか…

 http://sakurasaku0911.blog.fc2.com/blog-category-7.html
 

真清田神社

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2014年 1月17日(金)20時29分35秒
返信・引用
  MURYさん。

とても面白い情報を有難うございました。
この記事を先に拝見していればもっと簡単に答えが出たことになりますね。
でも、三明神社を通じて遠山氏の見解と同じところに行き着いたのですから、それはそれで良しとしておきます。
歴史の謎解きは少ない材料であれこれ推測するところに醍醐味がありますから…。

あちこちの神社に行くと磐境を目にするケースもあります。
一応写真を撮りますが、何しろ史料のない時代の存在なのでどんな視点で見るべきか良くわかりません。
この掲示板を参考にさせていただいて、一定の視点を得られればと思っています。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/

 

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